春を患う
「お前さん、なんだか最近は元気がなさそうだが……大丈夫か?」
いつものボックス席で食事をとった後。お酒も飲みたくなったので一杯ひっかけていると、店の客が私しかいなくなったタイミングで声をかけられた。自分ではそのように思っていなかったので内心驚きつつ、マスターを見上げれば随分と心配そうな顔をしていて。
(マスターのこんな顔を見るのも、いつ振りだろう)
すぐには思い出せないくらい、それなりに永い時間を過ごしてきたが冗談を言って流せる雰囲気でもなさそうだ。そう判断して、まろやかな口当たりで好みだったお酒ではなく水を一口飲んでから、マスターの問いかけに対して返答する。
「私としては、通常通りに過ごしているつもりだったんだけど。マスターにはそう見える?」
「ああ。この店でエイメルを見かけなくなった辺りから、毎回一人で完食してくれてはいたが……それから、妙にぼんやりしている時間が長かったからな。お前さんの言い分だと、どうやら喧嘩したわけじゃないのか」
「違うよ。治安維持部隊の任務で遠方へ向かうことになったから、暫くの期間一緒に食事するのも難しくなるって言われていたんだ。何事もなければ三日後には戻ってこられるみたい。マスター、気にかけてくれてありがとう」
エイメル本人から伝え聞いていた事情も含めて教えると、そこで漸く安心してくれたらしいマスターが私の向かいの席に座った。
その間もマスターの尻尾がハタキで器用に店内を掃除していくのが目に入り、変わらない丁寧な仕事振りを見守っていると不意にマスターと視線が重なる。
「私の顔、何かついてる?」
「いや、……あー、わざわざ俺が口を出すべきではないんだろうが。エイメルが戻ってきた後、会う約束とかしているのか?」
「時々連絡はとっていたけれど、そういった予定は特になかったな。どうして?」
「お前さんは無意識だったのかもしれんが。元気がなさそう、っていうのと同じくらいの頻度で寂しそうな顔もしていたからよ。難しく考えすぎず、たまには肩の力を抜いて過ごしたっていいんじゃないか、と思っただけだ」
本心を見透かされた気がして言い淀んでいると、とっくに中身がなくなっていたグラスを取り上げられる代わりにマグカップが差し出される。いつの間に温かい飲み物も用意してくれたのだろう。全く分からなかった、と思いながら大人しく受け取って口をつけると、お酒とは別のほっとする味わいに自然と息が漏れていた。
ほんの少し前までは、仕事終わりにこの店でエイメルと過ごすのが私にとっての日常となっていて。お互いの仕事や好みのメニューに関してなど、いつだって話題が尽きなかったと思い返す。それに話題が尽きて無言の時間が流れた場合も――私と目が合ったエイメルは恥ずかしそうに、けれども、それ以上に嬉しそうな表情を浮かべていたところもうっかり思い出してしまった。
「ん? お前さん、だいぶ顔が赤いぞ。今日提供していたのはそこまで強い種類の酒じゃなかったはずだが。本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫。こっちはお酒が原因じゃない、と思うから」
「本当かぁ? まあ、お前さん自身がそう言うのなら俺も構わんが……あんまり根を詰めすぎるなよ、」
首を傾げても、それ以上突っ込んでこなかったマスターに感謝して携帯端末に触れる。
真面目なエイメルのことだから、この街に戻ってくる前日には私にも連絡を入れてくれる可能性が高い。そう頭では理解していても、エイメルとやりとりしていたメッセージ画面を開き、指先で新しくメッセージを打とうとした直前でどうにか思い留まった。
(エイメルの顔が見たい。声が聞きたい。また一緒に食事をして、任務で怪我なんて負っていないかどうか確かめさせて欲しい。エイメルが、……ここにいなくて、寂しい)
浮かんできた言葉はどれもこれも、一般的な友人の範囲に収めるにはやたらと熱っぽく感じられて。敢えて、自分を落ち着かせるためにゆっくりと深呼吸する。
(まるで、季節外れの春が来たみたいだ)
他人事のような感想を抱きながら、訝しげにこちらを見ているマスターの視線から一刻も早く逃れたくなった私は慌ててマグカップの中身を飲み干す。
……本当に今更、どうしようもなくここにいない唯一の存在が恋しくてたまらなかった。
◇◇
「エイメル先輩! 遠方での任務、お疲れ様でした」
久しく訪れていなかった治安維持部隊の詰め所へ立ち寄った際、ちょうど昼休憩をとっていたらしい後輩達と私の同期であるデイヴィスに出迎えられる。三ヶ月にも満たない期間ではあったものの、相変わらずさまざまな事件や騒動などが起きていた話も聞いていると、懐に仕舞っていたプライベートの端末から通知音が鳴った。
四人の許可も得たうえで端末に触れた私は、画面上に表示された文字を見て思わず息を呑む。あの店で、再び食事をともにする予定だったさんが体調を崩したという、決して嬉しくない知らせだったからだ。
「エイメル、いきなり険しい顔してどうした?」
「ええ、……今夜お会いする予定だった方が、体調を崩されてしまったそうで。食事をともにするのは難しいと連絡があったんです」
「えっ。それって、もしかして以前、エイメル先輩が花束を贈っていたあの方ですか!?」
「もしかしなくてもそうだよな。今回の任務、無事に終えられるよう気合も入れていたし」
「ふむふむ。じゃあ、エイメル先輩。お見舞いに行かなきゃですね!」
また日を改めて、と返事するべく文面を考えていたところに、後輩の一人から明るく提案されて一瞬思考が停止する。そんな私をよそに、他の三人もしっかりと頷き合って。
「相手の方の状況にもよりますが、わりと悪くない案ではないかと。仮に対面が叶わなかったとしても、その時はまた日を改めれば良いでしょうし」
「賛成です! 一人暮らしの方だったら、特にスポーツドリンクや手軽に食べられるインスタント食品を数種類持ってきてもらえると、すごく助かると思います」
「あとはゼリーやプリンとかも、食欲がない時おすすめだな。その辺のコンビニでも色々と売られているし」
「ま、……待ってください! まだ確実に、行けると決まったわけでは、」
「だったら、直接聞いてみたらいいんじゃないか?」
そう言って、私の手から端末を抜き取ったデイヴィスがそのまま操作して電話をかける。止める間もなく繋がった先、久し振りに聞こえた彼女の声だけで容易く胸が高鳴っていた。
「突然お電話して申し訳ありません。エイメルと同僚の者で、デイヴィスと申します」
「~っ!」
「少々、お時間よろしいですか? ……ありがとうございます。このままエイメルに代わりますので、お待ちください」
一度保留をとった後、満面の笑みを浮かべた同僚から端末が差し出される。なぜか小声になった後輩達から激励の言葉もかけられつつ、混乱よりもずっと心配が勝った私は迷わず端末を手に取った。
「お久しぶりです、さん。先程はご連絡をありがとうございました」
『エイメル、久しぶり。せっかく戻ってこられた時に体調を崩しちゃってごめんね』
「いいえ、……その、お加減はいかがでしょうか?」
『熱に関しては落ち着いたんだけど、ご飯を食べるほどの気力がなくて。昨日からほぼ水分だけとってそれ以外寝ている感じ。こんなに調子が悪くなるのも珍しいから、私自身、結構驚いているよ』
咳や鼻を啜る類いの音は聞こえてこなかったが、確かに弱っているようにも感じられる声音でいっそう彼女への心配が増してくる。少なくとも、ここで躊躇っている場合ではないのだと直感した。
「さん。これから、ご自宅へお見舞いに伺ってもよろしいでしょうか」
『お見舞い? でも、エイメルの仕事は大丈夫?』
「はい。今日は元々、非番の日でしたので。貴方が嫌でなければ、ほんの少しでもさんとお会いしたいです」
『……、分かった。じゃあ、家でエイメルを待ってる。数日寝て過ごしていたから綺麗な恰好じゃないけれど、そこは呆れないでね』
了承してもらえて安堵したのも束の間、直後の一言で彼女の寝間着姿を想像しそうになり勝手に顔が熱くなる。それでもなんとか電話を終わらせた私は、私の反応を見てそわそわと期待している後輩達と同僚の様子に最後まで気付かず大切な人の元へと急ぐのだった。
◇◇
――ふわり、と。自分以外、誰もいなかったはずの空間で美味しそうな匂いが漂い、まどろんでいた意識が浮上した。
数日間の不調が原因で水以外碌に受け付けなかったはずなのに、この匂いを感じ取った瞬間それまで沈黙を保っていた腹の虫が盛大に鳴り響く。そういえば、ワーカーズハイでマスターと会話した日以降まともに食べていなかったな、と思い出していると自室の扉が開けられた。
「さん、目が覚めたんですね! 良かったです。台所をお借りしていました」
「エイメル、……おはよう?」
「ふふ。はい、おはようございます。といっても、外も暗くなってきたので実際は夕方になるのですが」
昔マスターにおすすめされて買った土鍋と茶碗のほか、温かいお茶に佃煮を添えた小皿もローテーブルに置かれたため、完全に眠気のなくなった私はベッドから身を起こした。
立ち上がり、いそいそと着席すると近くにやって来たエイメルの手で土鍋の蓋が開けられる。十分に煮込まれたと分かる米と芋の優しい香りが更に室内で広がり、空腹を刺激された私の身体からはまたもや腹の虫が鳴った。どう考えても誤魔化せない音量で恥ずかしさに身を縮めたが、エイメル自身は気にしていないのか当然の如く芋粥をよそってくれる。
「私の記憶違いでなければ、エイメルが家に来たのはお昼過ぎだったよね?」
「そうですね。電話した後、こちらにお邪魔して長居はしないつもりだったのですが……途中で、熱が上がった貴方にお願いされたのです。起きるまで傍にいて欲しい、と」
「っ、……ごめんなさい。貴重なお休みの日だったのに、長い時間、引き止めてしまって」
この街に戻ってきたばかりのエイメルも疲れていないはずがないのに、我儘を言ってしまった。そんな罪悪感で若干落ち込む私の前に、ほんのりと湯気の立った茶碗が置かれる。
「さんが謝ることはありません。私も、眠っている貴方を残して帰る方が心配でしたから」
――それに、頼ってもらえて嬉しかったのです。私にとって、大切な貴方だからこそ。どんな形であっても貴方と同じ時を過ごせて幸せだと……今でも、そう思っています。
俯いていた顔を上げると、信頼と好意がひたすらまっすぐに込められたエイメルの熱い眼差しを知って胸の中がいっぱいになる。
温かくも柔らかく、そしてどこまでもだめにされてしまいかねない心地良さにただ満たされて。ふと、私は負けたのだと思った。
(ああ、……なんだ、そうだったのか。見事だ。私の完敗だよ、エイメル)
そもそも、本人にとっては勝負ですらなかったかもしれないが。
正体を知らずとも、真っ向から幸せだと言いきったエイメルにもはや勝てないと自覚した私は不覚にも泣きそうになったのを堪える。
そうしてエイメルに促されたとおり、私の不調を気遣ってつくられたこの手料理が冷めてしまわない内に心ゆくまで味わった。きっと、この先続く永い日々においても今日の出来事は一生忘れないだろう。