頼みをひとつ。ひとつでいいから、どうか聞いてくれないか。
たとえば、あの店で誰かの飲み物を注いでいる時の真剣な眼差しに反して、言葉を交わせば私に対しても柔らかく微笑んでくれるところ。
先代に贈られたという耳飾りが似合っていると伝えた瞬間、頬を染めた純真な一面があるかと思えば、苦手な雷鳴に怯えて動けなくなっていた弱さもひっくるめて彼女なのだ――ということが、私にも分かってきた。
「ええと、……つまり、ここまで聞いたお話を要約すると。シャカは、バリスタさんともっと親密な仲になりたい、ということでしょうか?」
かねてより親交のあったピタゴラスが、若干戸惑いを含ませた声でそう尋ねる。結論としてはそれが最も近しいのだろうが、なんとなく返事をするのが躊躇われた私は市販の缶コーヒーに口をつけた。
(不思議なものだ。彼女の店で飲む時と違って、……このコーヒーは、どこまでも苦く。大して美味くない、とも思ってしまう)
と最も接触した、あの雨夜から既に一ヶ月以上が過ぎた現在。
それまで幾度か雨が降った日もあったが、私は彼女の店には向かわず、大学院での研究と課題の消化に明け暮れていた。ステラには至急の案件ではないため、そこまで本腰を入れなくても構わないと声をかけられたが、引き止められたわけでもなかったのでむしろ集中して取り組んでいたと言ってもよいのかもしれない。
『てっきり、私が二人に頼んだ試写会をきっかけに進展するかと思ったのに……意外と慎重派だったのねえ、彼』
『ハッ。わしからしてみれば、好機を逃しまくっているヘタレ、としか言いようがない状況じゃがの』
『まあ。リリスったら、随分と手厳しいじゃない』
『厳しいどころか、むしろ親切な方じゃろ。分かりやすく発破もかけてやったというのに、バリスタのことを論理的に考えようとするあまり立ち往生しているとは……研究室で顔を合わせる度、早く会いに行ってこんか、とこっちはせっつきたくなったくらいじゃ』
『うふふ。でも、リリスはバリスタさんのために、そうしたかったのを我慢してきたのよね?』
『……、悔しいが、まあ、そうなるのかもしれんな。当事者ではないわしが無理矢理、バリスタの店まで引き摺っていったとして。多分いい結果にはならんじゃろ。わしとて、馬に蹴られるのはなるべく御免被りたい』
『引き摺っていけるかどうかはさておき、そうよねえ。シャカ自身が、ちゃんと納得していないと変に拗れちゃう可能性も捨てきれないし』
レポートの作成に際し、必要だった書物を図書館で借りてきてから研究室に入ろうとしたが、中から聞こえてきたよく知る二人の声に自然と足が止まってしまった。ステラはこの場に不在なのか、或いはいたとしても研究に没頭しているため会話に参加していないのかまでは分からない。
二人以外の声は一切聞こえてこなかったが、流石に全く聞こえなかった振りをして入室するほどの気力もなく、私はせっかく借りてきた書物を持ったまま踵を返すほかなかった。
(そういえば、学内でと会ったのも図書館だったか)
元々、学生や教員ですらなかった彼女がここを訪れる理由もなく、いるはずがないのにの耳元で輝いていたあの青紫色の煌めきを思い出す。
(二人が言っていたとおり。私は、に会いに行くべきなのだろう)
だが、――次に彼女と会った時、果たして自分は何を口走ってしまうのか。
困ったことに、未だその考えが定まらず、ここ最近の私は不芳なのであった。
◆
「それで、頭と心の整理も兼ねて、まずは話を聞いてほしいと頼み込んできたわけですね?」
「……すまない、ピタゴラス。そちらも図書館の仕事で忙しいだろうに」
「いいえ。困っている人をそのままの状態にしておくのも、逆に気になってしまいますし。今は図書館の繁忙期でもないので、お話を聞くくらいだったら構いませんよ」
大学に入学した頃から図書館司書として勤めており、時にはステューシーとともにステラの助手として研究室へ出入りしているピタゴラスが、私に向かって軽く頷く。
物事の分析に優れている彼ならば、私の不芳を改善するために今後どうしたらよいのか。図書館へ戻ってきた私がピタゴラスを呼び止めたのは、周囲の中でも、特に的確な助言を与えてくれるのではないかと期待してのことだった。
「とはいえ、……う~ん。あくまでも、自分の所感ではありますが。理屈的に、というよりかはいっそシンプルに、なお且つ想像を膨らませていった方が理解しやすいかもしれません」
「シンプルに、想像を膨らませる……」
「そうそう。ここでは、リリスが言っていた例え話をちょっとお借りしてみましょうか。仮に、シャカがこれからバリスタさんとお会いした時。彼女から、好きな人ができたと言われて紹介されたのが、シャカの全く知らない第三者だったとします」
「……」
「バリスタさんは、その人と見つめあって幸せそうに笑っているかもしれません。なんなら、シャカの目の前で相手と手を繋いだり、もしくは身体を抱き寄せられたりもして。とにかく、めちゃくちゃ仲睦まじい雰囲気も漂わせているものと仮定します」
その例え方もどうなんだ、と内心思わないでもなかったが、自らピタゴラスに頼んだ以上口を挟めず言われたとおりに想像してみる。
彼女が幸せそうに笑っているのは良いことだろうと分かるのに、私以外の誰かが――それこそ、あの雨夜と同じく抱き寄せているのかと考えたら、どうにも落ち着かなくなってしまった。
「更に、恋人止まりではなく、相手と将来を誓ったので近々結婚する旨を宣言されるパターンも考えてみましょう。よくよく見ると、バリスタさんの左手の薬指には婚約指輪らしきものが嵌められていて。是非、私たちの結婚式にも来てくださいね、と満面の笑みで誘われてしまいました」
「……」
「さて、ここで問題です。シャカは、シャカ以外の誰かの伴侶となる予定のバリスタさんに、心から祝福の言葉を贈ることができそうですか?」
今に至るまで、私との関係性とは喫茶店の店主と時折訪れる客でしかなく。特別、親密というわけではなかったはずだった。
(ならば、特別ではない私は。そんなを言祝ぐべきだ)
それでも、誰かの伴侶となるきみを想像しただけで、むしろ平静からは遠ざかっていく一方で。手の中でもはや熱を失っていた、缶コーヒーとは比べものにならないほどの苦々しさが込み上げてくるばかりだ。
「……心から、というのは無理だ」
「ふむ。そのようにシャカが判断した理由もどうぞ」
「彼女の、……の、笑顔を。本当は、誰よりも近くで見ていたい。もし、苦手なものがあって彼女が怖がっていた時には、一番に私が気付いてどうにかしてやりたいとも思っている。私自身、決して万能ではないが、できることがあるのならばに頼ってほしいし、私が彼女の傍にいたい」
ピタゴラスより促されて、理由を述べていた最中に。やっと大事なことに気付く。
「ああ、そうか。つまり私は、――こんなにも、彼女のことを愛おしく想っているのか」
だから、が別の誰かと結婚すると想像した時。心から祝福なんてできそうにないとも思ったのだな。
そう呟くと、ピタゴラスもまた満面の笑みを浮かべていて。
「そういうことですね。いや~、これで大丈夫、私ならちゃんと彼女を祝福できるし結婚式にも参加する、とか言われたらどうしたものかと冷や冷やしましたが。無事、シャカの悩みが解決したみたいでよかったです!」
「そうだな、……ありがとう、ピタゴラス。私にも分かるように言ってくれて」
「ふふふ。今まで、学内での研究中心だったシャカが、そんな風に想える人とめぐりあえたなんて。なんだか、シャカの話を聞いているこちらまで嬉しくなってしまいました」
――シャカ、あなたが大事に想えるくらい。彼女はきっと、とっても素敵な方なのでしょうね。
ピタゴラスからの言葉に対して、私は勿論、迷う間もなく頷いていた。