うちがわに寄り添う、今はそれだけで。

 雨夜で一切の明かりが途絶えた中、雷鳴の轟音が響き渡る。その瞬間、身を硬くさせた彼女の背中を緩く撫でると、胸元で微かな吐息が一つ零れた。

「すみません。私、子どもでもないのに、」
「いや。誰にだって苦手なものはあるだろう。きみの場合は、偶々それが雷だっただけの話だ」

 だから気にする必要はない、と呟いて、改めて両手を彼女の背中に添える。私とは全く違う柔らかな身体と、服越しに伝わってくる温もりから既に離れがたくなっているのは、お互いの視界が頼りにならないこんな状況だからこそ思ってしまうことなのか。

(落ち着かせるためとはいえ、私が自分の心音を人に聞かせる日が来るとは……正直、予想すらしていなかった)

 けれども、こうすることによって少しは安堵したらしい彼女が私に凭れかかってくれるから。
 間違っても、このままこの両腕の中へ閉じ込めてしまわないように理性を保ちながら、私は未だ鳴り止む気配のない雷鳴と雨音だけに暫く耳を傾けていた。

    ◆

「先日は贈りものをありがとう。きみに言われたとおり、ちゃんと家に着いてから中身を確認させてもらった」

 ステューシーに頼まれて、とともに映画の試写会へ行ってきた数日後。
 「月時雨堂つきしぐれどう」へ足を運ぶと、かつて彼女と出逢った時と同じように私以外の客はおらず。図らずも二人きりだったため、あの日に手渡されたものについて私から話を切り出してみた。

「取っ手が猫の尻尾を模している辺り、普段の私だったらきっと選ばないデザインだっただろうが。意外と、あの形状が持ちやすくて今では気に入っている」
「あの深みのある紺色のマグカップを初めて見た時、なんだかシャカさんのことが思い浮かんできて。機会があれば是非渡したいなと思っていたんです。だからあの時、受け取っていただけて私も嬉しかったです」

 そう言って微笑んだ彼女から、雨で多少冷えた身体を温めておいた方がよいかと考えた末に注文していたマサラチャイの注がれた臙脂のカップが差し出される。シナモンの他、複数のスパイスも追加されたそれからは独特ながらも豊かな香りが広がり、軽く息を吹きかけてから口をつけるとなんとも味わい深い風味がした。

「そういえば、ステューシーさんに映画の感想を伝えられましたか?」
「ああ。やはりいくつかの質問も受けたが、結末に関わる情報を避けて伝えたら思っていた以上に喜ばれた。きみの店にも、仕事が落ち着き次第訪れたいとますます張りきっていたよ」

 ステラと参加してきた研究会は恙なく過ごせたそうで、私からの感想を聞いて映画の公開がより待ち遠しくなった、と言っていたステューシーは普段以上に楽しげな笑みを浮かべていた。多忙な身の上ではあるが、或いはステラと二人で観に行く予定なのかもしれない、とふと思う。

「この店に着いた直後と比べると、雨脚も随分強まってきたようだ」
「そうですね。朝から雨が降っていて、お昼過ぎまでは他のお客様もいらっしゃったのですけれど……夕方以降、ますます本降りになってきましたから、もしかしたら今日はシャカさんが最後のお客様かもしれません」

 本当はリリスも来たがっていたのだが、提出したレポートの一部に不備があったらしく、いかにも不機嫌そうな顔で見送られたことを思い出す。今頃、のプリン食べたさにまた唸りながらレポートを訂正しているだろうかと考えつつ店の窓を見遣ったその時。一際大きな雷鳴とともに、突如として店内が真っ暗になった。

「……停電か」
「そう、みたいですね。懐中電灯は常備しているので、そちらを使えば最低限の明かりは確保できるかと」

 おそらく、手元に置いてあったそれを取ろうとしたのだろう。そんな一瞬においても、雷は容赦なく轟いて、カウンター越しに立っていたの口から声にならない悲鳴が漏れたのが聞こえてしまった。

。大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫、っ、」

 言いきる前に、再び強い閃光とともに何もかもを薙ぎ倒してしまいかねないほどの轟音が耳をつんざく。そうして間近で二度目の悲鳴も聞いた私は、どう考えても大丈夫ではなさそうだと判断した結果、ゆっくり立ち上がるとのすぐ傍まで歩み寄った。

(いつぞやの、学内で男に声をかけられていた時よりもひどい顔だ)

 雷によって照らされたその表情は、いつになく強張っていて。彼女が怖がっているのはどう見ても明白だ。しかしながら、相手が自然現象である以上、私一人ではどうしようもないと思い至る。
 それでも他に何かできそうなことがないのか思考した末、遂に私がとった行動は――目の前で怯えていたの身体を、こちらに引き寄せることだった。

「あ、」
「すまない。きみを宥められそうな言葉が思いつかなかった。だが、……たとえ気休めに過ぎずとも、何もしないよりかは良いのではないか、と思ったんだ」

 本人に拒絶されたならば離れるつもりでいたが、言葉が返ってこなかった代わりに彼女の頭が私の胸元と接触する。
 暗がりの中、外は相変わらず雷鳴と雨音で溢れていたが、初めて触れたその身体が温かくて私まで熱くなった心地がした。
 至近距離ゆえにこの店のコーヒーだけでなく、自身のほんの少し甘い香りも漂うせいかもっと近付きたい気持ちを押し止めて、ただじっとその場で立ち尽くす。その間、彼女も雷鳴が轟く度に身動ぎはしたものの、大人しく私の胸に顔をくっつけていた。

「こんなに近かったら、シャカさんの心臓の鼓動がよく聞こえますね」
「そうか。これで多少は、きみの気が紛れただろうか?」
「多少、どころじゃなくて、とっても。ふふっ、……すごく、どきどきしている音も聞こえてきました」
「……仕方がないだろう。私だって、こんな風に人と身を寄せ合うのは滅多にないことなのだから」

 それくらいはどうか大目に見てほしい、と囁けば、また小さく笑った彼女の柔らかな声が耳を擽る。

(いっそのこと、私の身に宿る熱がきみにも伝わったら。この先、どうなるのだろう)

 決定的な言葉を告げてしまえば、一気に変わってしまうかもしれないとの距離を憂慮して、敢えて深く考えないように努める。
 結局、店内の停電が復旧するまで彼女に寄り添っていた私は、それから当たり障りのない話だけをして珍しく足早に店を立ち去ったのだった。

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