砂糖の数、ミルクの量、すべての仕草。

「元々、バリスタと名乗っていたのは訪れてくださった方が呼びやすいように、先代が店主だった頃から行っていたことで。どうしても名前で呼ばれたくないとか、そういった事情もないんです。ただ、私自身バリスタと呼ばれるのがすっかり日常になっていたから……自分の名前を誰かに伝えるのは、久し振りだなあ、なんて思っちゃって」

 ――改めて、「月時雨堂つきしぐれどう」店主のと申します。こちらこそ、と呼んでいただけたら嬉しいです。

 そう言って、花が綻んだように笑った彼女が快く頷いて私を見上げる。
 景色はいつもと変わらない、通い慣れた大学の図書館前だったにもかかわらず、私の心は彼女の店で過ごしている時と同様に満たされていた。

    ◆

「大学のカフェテリアって、こんな感じの雰囲気なんですね。想像していたよりもずっと広くて、びっくりしてしまいました」

 カウンターから受け取ったばかりのコーヒーに、砂糖はほんの少し、ミルクを多めに足したが周囲を見渡して呟く。
 図書館前で声をかけてきた男と似たような誘いとなってしまったが、待っていた間少なからず怖い思いをしたであろう彼女をこのまま自宅に帰すのもどうなのか、と考えた私は、この後特に用事もないと言っていたを伴い学内のカフェテリアへ戻ってきていた。

「答えたくなければ無理に答える必要はないが……もしやきみは、高校を卒業してからあの店を引き継いだのか?」
「いいえ。専門学校に進学して、そこでいくつかコーヒーに関係する資格も取得してからのことになりますね。といっても、いきなり店主になったわけでもなくて……卒業後の一年目は、先代から色々と教わりながら修行している感じでした。だからこれまで、大学という場所自体にあまり訪れる機会がなくて」

 コーヒーとミルクが混じり合い、柔らかな伽羅色に変わっていったその飲み物に小さく息を吹きかけた彼女がゆっくりと口をつける。図書館へ向かう直前もレポートを作成中だったリリスの姿は見当たらず、先ほどよりも更に人通りが疎らとなったカフェテリアは静けさに包まれていた。

「シャカさんとリリスさんのお二人とも、確かこちらの大学の工学部から大学院に進学されたんですよね」
「ああ。ステラ、……いや、世間的にはベガパンクと言った方が分かりやすいか。私とリリスは、ともに大学の頃から彼の研究室に所属している」
「ベガパンクさん、何度かテレビでお姿を拝見したことがあります。最近は世界中を回っていらっしゃるみたいですけれど、シャカさんたちもお伴する時があるんでしょうか?」
「私たちはあくまでも大学院生、という立場だからな。いずれ卒業して、正式に彼の研究所の所員として迎えられたらそういった機会もあるかもしれないが。学生でいる内は、ステラ本人からよほどの声でもかからない限りないと思う」

 もっとも、リリスの場合は一日も早くステラの下で自由に研究できるようになりたいと常々口にしているが、今でさえ多忙を極めているステラに学生を同行させるほどの余裕はないだろう。
 そこまで考えながら彼女に視線を向けると、不意に青紫色の光が一瞬煌めいたような気がして、じっとそちらの方を見つめる。

「シャカさん、どうかしましたか?」
「……」

 ちょうどすぐ隣に座っていたことで、その光の正体に思い至った私は首を傾げていたの髪へ慎重に触れてみた。驚いた表情で、しかしながら嫌悪を浮かべてはいない彼女の様子をうかがいながらもそのまま髪を掻き上げると、予想していたそれはの耳元で美しく輝いていて。

「っ、」
「最初は、サファイアかラピスラズリ辺りかと予想したんだが。多色性があるのを踏まえると、おそらくアイオライトだろうか?」
「……よく、ご存じですね。名前まで言い当てられたのは初めてです」
「ステラの研究資料に目を通した際、その中に宝石に関するものが混ざっていたのを思い出したんだ。自分でも、よく気付いたものだと思うが」

 ――髪で隠れてしまうのが勿体ないくらい。きみの耳に、よく似合っている。

 思わず触れてしまった手を離し、薄い耳朶を彩る小さな耳飾りが見えなくなったのと同時に、彼女の頬がほんのりと赤く染まってゆく。

「……、すまない。の許可も得ず、勝手な真似をしてしまって。不愉快だったか」
「あっ、いえ、そういうわけではなくて! その、子どもみたいだと思われてしまうかもしれませんけれど……今日着けてきたアクセサリー、実はお店を継いだお祝いに、先代が贈ってくださったものなんです。それで、私にとって思い出深い分、似合っていると言ってもらえたのが嬉しくて」

 ――でも、髪に触れられた瞬間は流石にどきどきしちゃいました。シャカさんって、大胆なところもあるんですね。

 私の言動に怒ったわけではなく、むしろ喜んでいるらしいが頬を染めたままはにかんだ笑顔を向けてくれる。
 たったそれだけの仕草なのに、今まさに彼女から目が離せなくなりそうになっているこの感情をなんと形容したらよいのかが脳内で出てこなくて息を呑んだ。未だ赤い頬にも触れられたのなら、きみは私にどんな顔を見せてくれるのだろう、なんて――いつの間にか、そう思っていた自分自身にすら驚いてしまう。

「まあ。妙に甘い空気が漂っていると思ったら……シャカ、あなたが女の子と一緒に過ごしているなんて、随分と珍しいわね?」

 そんな時、長年ステラの秘書として付き添ってきたはずの人物から声をかけられて振り向く。白衣を身に纏っていながら、相変わらず踵の高いヒールを難なく履きこなしているその人物は、私と隣のを見下ろして意味ありげに笑っていた。

「ステューシー、久し振りだな。こちらへ戻ってきていたのか」
「ええ。今朝、飛行機で帰国したばかりよ。ステラは研究室にいるでしょうから、後でシャカも顔を見せに行ってあげてね。ところで……そちらのお嬢さんが、例のバリスタさんかしら?」
「え?」
「ああ、驚かせてごめんなさい。さっきリリスから近況を聞くついでに、ちょうどバリスタさんについても教えてもらったばかりだったから。シャカと一緒にいたあなたが、もしかしてそうなのかと思って……初めまして、私はステューシー。ベガパンクの秘書兼助手の一人よ。最近は国内にいない日の方が多いけれど、私も是非、あなたのお店に行ってみたいわ」

 にこやかに微笑むステューシーが、彼女に向けて手を差し出す。挨拶されたはステューシーの発言に少なからず驚いていたようだったが、差し出された手に自らの手を重ねるとまた柔らかく笑っていた。

(……決して、ステューシーが悪いわけではないが)

 正直に言ってしまうと、面白くない、というたったの五文字が私の心を侵食しかけている事実に気付いて少しだけ頭を抱えたくなった。が握手しているのは私もよく知っている相手だというのに、彼女と視線が交わらない、その一点においてじりじりと焦がれる心地を味わっている私はなんと滑稽な男だろうか。

「そういえば、ちょうどあなたたちに頼みたいことがあったの」

 悶々としている私の内心をよそに、一枚の葉書と思われるものを取り出したステューシーから告げられたその頼み事は、私だけではなくの動きも一瞬止めるほどの衝撃を伴っていた。

「今度、上映される映画の試写会に招かれていたんだけど、急遽ステラと一緒に別の研究会へ参加する予定が入っちゃって……よかったら、私の代わりに二人で楽しんできてもらえないかしら?」

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