残り火は何を焦がすのか。

 私とバリスタの関係性とは、喫茶店の店主と時折訪れる客でしかなく。特別親密というわけではなかったはずだった。
 それなのに、明らかに戸惑っている彼女の様子にも気付かず、剰え無遠慮に触れようとしている男の姿を認めた瞬間――ひどく衝動的な苛立ちが沸き起こって。

(この苛立ちは、バリスタが煩わされているがゆえに発生したものなのか?)

 否。彼女が受け入れていたとしても、同様に生じた気がしている時点で答えは疾うに導き出されていたのだろう。

    ◆

「……こうも快晴ばかりだと、普通の店と違ってなかなかバリスタと会う機会もないものじゃのう」

 大学のカフェテリアにて、レポートを作成していたリリスが欠伸まじりに呟く。昼食で混雑する時間帯を過ぎていたからか、辺りに人は疎らで、私も自身の研究資料用に持ってきていた数冊の本を読み込んでいるところだった。

「仕方があるまい。元よりこの学内に店を構えているわけではない以上、会う回数が減るのは当然のことだ」
「むう。バリスタの店のプリン、定番と季節限定の両方とも美味かったから是非また食べたいんじゃが……というか、シャカはバリスタと個人的に連絡をとっておらんのか?」
「その質問の意図が分かりかねる」
「意図、というほどでもないが。昔から、誰に話しかけられても事務的な態度を崩さなかったおまえが、バリスタ相手だとそうじゃなくなる辺りわしは普通にアプローチしていると思っておったぞ」

 リリスに指摘された瞬間、それまで淀みなく本のページを捲っていた私の手が今日初めて止まる。
 ステラの研究室に所属し、科学者となることを志している私に対して擦り寄ろうとしてくる者たちも確かにいたが、私自身がそんな彼らに興味を持てなかったので決して親切な対応をしてこなかったのは事実だ。

「……、自分では、そこまで態度を変えたつもりはないのだが」
「じゃあ無自覚ってやつか。ハッ、そんな調子である日、バリスタに彼氏とかができたらどうするつもりじゃ? 略奪なんぞやったことのないおまえが、泣かせてでも奪い取るだなんて暴挙、更々できそうにもねェけど」
「いきなり物騒な話に飛躍したな」
「なんじゃ。仮にバリスタが、他の野郎にかっ攫われていってもシャカは納得できるのか?」

 眉間に皺を寄せたリリスから不服そうに尋ねられたその疑問に対して、私は即答することができなかった。そもそも私とバリスタの関係性とは、現時点で振り返ってみても喫茶店の店主と時折彼女の店を訪れる客でしかなく、特別に親密というわけでもないはずなのだが。

(それでも。彼女が誰かに攫われるような場面を想像したくない、と心のどこかで思ってしまっているのもなぜなのだろう)

 上手く言葉が出てこずひたすら無言を貫く私に、リリスはどこか呆れかえった表情を浮かべていたが、私が返答するよりも早く再び予想外の発言を行う。

「そういえば、わしとしたことが大学の図書館で借りていた本をうっかりあの店に置いてきてしまってのう。昨夜店の電話番号にかけてみたら、優しいバリスタが直接この大学まで届けに行くと申し出てくれてな。ちょうど、これからバリスタと会う約束をしているんじゃった」
「……、は、」
「多分、もうそろそろうちの図書館に着く頃なんじゃないかの? 無論、このまま本を受け取るためだけに、わしが直接向かってもちっとも問題はないわけじゃが」

 ――少なくとも十日以上、快晴続きでろくにバリスタと会えていなかったシャカに敢えて譲ってやってもよいが、どうする?

 まず大学で借りてきた本を忘れてくるんじゃない、と口走りかけた文句をぐっと堪えて嚥下する。代わりに私の口からは重い溜め息ばかりが漏れたが、先ほどと打って変わって悪い笑みを浮かべたリリスは、そんな私を眺めて心底楽しげなのであった。

    ◆

「うちの大学では見かけない子だね。新入生とかかな? 俺、ちょうど今日の授業も終わって暇していたところだからさ、よかったら案内するよ」
「ええと、……いえ、この大学の方と待ち合わせをしているだけなので。お気持ちはありがたいのですが、」
「まあまあ、そう遠慮せずに! あっ、よかったらその友達も交えてさ、この後皆でお茶でもどうかな?」

 リリスが指定したバリスタとの待ち合わせ時間が迫ってきていたこともあり、足早に図書館まで向かうと入口に彼女と見知らぬ男が立っていた。いつも店で纏っているエプロン姿とは異なり、私服だった彼女のことを完全に大学生と勘違いしているのか、何やら張りきっている男からはその内バリスタの手も握ってきそうな気安い雰囲気を感じる。

(まさか、学内でこのような光景を目の当たりにすることになるとは……)

 早速二度目の溜め息をつきそうになったが、わざわざここまで足を運んでくれたバリスタが心細そうに佇んでいるのを見て歩くペースを速める。そうして危惧したとおり、なかなか誘いに頷かない彼女へついに業を煮やした男が伸ばしかけた腕を、私は一切の躊躇いもなく掴んでいた。

「っ、シャカさん、」
「誰とどのように過ごすのか、を決めるのはあくまでも彼女自身であって、他人が強制するべきことではない。それが初対面の相手ともなれば、遠慮するのだって至極当然の話だろう」
「げっ、シャカ先輩……!」
「ほう。私はおまえのことを知らないし、関わりすらも持っていないが。私の名を呟いて、顔色も悪くなる程度には自らが劣勢である、と認識してはいるようだな?」

 牽制も込めて、一瞬だけ握った箇所に力を込めてから腕を離す。途端に涙目になった男が、口先だけの謝罪を述べるなりこちらも顧みずに走り去っていったため、後には私とバリスタだけが残された。

「全く。せめてきみの目を直に見て、きちんと謝るぐらいの誠意は示してほしかったところだが……まあ、逆上されなかっただけマシな方か。バリスタ、せっかく来てくれたのに嫌な思いをさせてしまってすまない」
「いいえ、そんな。それより、どうしてシャカさんが図書館に? 私は元々、リリスさんとお会いする約束をしていたのですが」
「ああ、……実は、リリス本人から代わりに本を受け取っておいてほしい、と頼まれてな。急な話だったから、おそらくきみへの連絡も行き違いになってしまったのだろう」

 正確には、リリスの譲ってやってもよいという言葉を受けたからこそ私がここにいるのだが――実際にバリスタの携帯には、リリスからの連絡が届いていたらしく。それを見て頷いた彼女は、特に私の言動について疑っていないようだった。

「そうだったんですね。リリスさんも研究でお忙しいみたいですが、正直、シャカさんが来てくださってとても助かりました。どうにもならなかったら図書館の中に逃げ込もうかな、と思っていたんですけど……もしもリリスさんだったら、先ほどの方と喧嘩に発展していたかもしれません」
「確かに。とはいえ、腕っ節ではリリスの方が強いようにも思うが、そうなると騒ぎになるのは避けられなかったかもしれんな」
「ふふっ、……ああ、いけない。一番大事な目的を忘れてしまわない内に、シャカさんへ渡しておきますね」

 そう言って、バリスタから手渡された紙袋を受け取る。この中にリリスが忘れていった本が入っているとのことで、顔を上げた彼女は出逢った時から変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。

「一時はどうなることかと思いましたが、こうして無事に本をお返しすることができてよかったです。シャカさん、先ほどはどうもありがとうございました」

 走り去った男とは対照的に、こちらを真っ直ぐ見つめながらも感謝の言葉を紡いでみせたバリスタの誠実さが、私の心にまばゆく映る。

「……、私としては、自分が礼を言われるほどの特別な行いをしたとは思っていないのだが。きみは本心からそう言っているようだし、素直に受け取っておこう。ところでバリスタ、今日この後は何か予定でも?」
「予定、というほどのものは特にないですね。ちょっとだけではありますが、シャカさんやリリスさんの通う大学院がどんなところなのか拝見することもできましたし、このまま家に帰ろうかなと考えていました」
「そうか。これは、単に私からの提案に過ぎず、もちろん断ってくれても構わないのだが」

 柄にもなく、緊張で声が震えてしまわないように一度だけ深呼吸する。

(もっと知りたい。教えてほしい。私とは異なる人となりのきみだからこそ、何を好み、何を厭うのか……そしてあわよくば、いつかきみの笑顔を誰よりも傍で見ていたい。その足がかりとして、)

「バリスタ。私は、きみの名前を呼びたい」

 きみが嫌でなければ――この先、私がきみの名前を呼ぶことをどうか許してはくれないだろうか。
 そんな懇願にも近しい私の言葉を聞いた彼女は、驚きの表情を浮かべたものの。次の瞬間、まるで花が綻んだように笑ってくれたのだった。

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