呆れるけれど、こういう自分は嫌いじゃない。
『こちら、当店の名刺です。大体一週間毎に、その週の営業予定日時を名刺に記載しているSNS上で更新していますので、次回訪れてくださる際の参考にしていただければと思います』
――シャカさん、本日は当店にてお過ごしいただきありがとうございました。またのご来店をお待ちしております。
初めてバリスタと出逢い、彼女の喫茶店を出て帰路に就くタイミングで渡されていた名刺を見返す。とあるSNSのアカウント名に店名である「月時雨堂」、それに店の電話番号と思われるものは確認できたが、何度見返しても店主本人の名前はどこにも記載されていなかった。
(そういえば、彼女に名乗られた時もただバリスタとしか言われていなかったな……)
何か名前を出せない事情でもあるのか、もしくは敢えて自らバリスタと名乗っているだけなのか。
現時点では想像することしかできないが、もし本人に聞けそうだったらこのことについても聞いてみよう、とひとまず頭の片隅に置いておく。
「シャカ! こんなところにおったか」
「……、リリス」
「大学の後輩たちからの誘いでの、今夜皆で集まって飲み会をするらしいんじゃが、おまえもどうじゃ? わしとおまえに関しては、なんとも気前のいいことに奢ってくれるそうじゃぞ。久々の食べ放題且つ飲み放題! くーっ! 想像しただけで、テンションが上がるわい!」
本人の言葉通りはしゃいでいる様子のリリスを眺めつつ、喫茶店の名刺を懐へと仕舞う。念のため天気予報も確認していたが、今日は昼頃から既に雨が降りはじめており、なお且つ明日の夜までこの天気は回復しないとのことだった。
「せっかくの誘いで悪いが、私は今回パスさせてもらう」
「んなっ、……滅多にない、後輩たちからの奢りなのにか?」
「ああ。個人的に、この後少し寄りたい場所があってな」
「寄りたい場所……?」
「私の個人的な用事だからリリスが気にする必要はない。誘ってくれた彼らには、すまないがまた今度の機会にと言っておいてくれ」
呆気にとられたリリスに改めて断りを入れてから、バリスタの喫茶店へ向かうべく歩き出す。以前彼女に見せてもらったメニュー表には本当に多くの飲み物の名前が記載されていたが、さて、本日は何を頼もうか。
そんなことを考えながら歩いていた私は、背後に佇むリリスが悪戯を思いついたような表情をしていたことに最後まで気付いていなかった。
「シャカの奴、ステラから直接の研究依頼でもないのになんだか上機嫌そうじゃったの。そういえば最近、やたらと天気予報を確認している素振りも見せておったし……ひょっとすると、事件の匂いかもしれん」
◆
「というわけで、わしも今日この店に辿り着いた、ということじゃ!」
「というわけで、じゃない。全く、あんなにはしゃいでいた飲み会の誘いを蹴ってまで、わざわざ私を尾行する意味があったのか?」
「ふふん。まあ、タダで飲み食いできる機会が減ったことについて多少は残念な気持ちもあるが。それはそれとして、この店のコンセプトがわしにとっても実に興味深いので問題ない。しかし水くさいではないかシャカ、このわしに黙って、自分だけひっそりと面白そうな喫茶店に通うなど!」
「……、すまない、バリスタ。リリスが付いてきていたことで、きみの店が騒がしくなってしまって」
「なんじゃと!?」
「ふふっ。いえいえ、最初こそ驚いてしまいましたが、私としてはお客様が増えて嬉しい限りですから。むしろ、ありがたいくらいです」
喫茶店に到着して早々、バリスタにカウンターの席を案内されてから何を注文しようか考えていたタイミングで突如現れたリリスは、物珍しそうに店内を見渡しながらも遠慮なく私の隣に座ってきた。
幸い、私たち以外の客はいなかったので誰かに責められるようなことはなかったが、バリスタ自身は自由奔放なリリスによって気分を害された感じでもなく、ごく自然にこの店のメニューについて案内しはじめる。
「ほほう。こういった店定番のコーヒーだけでなく、なかなか多種多様な飲み物が用意されているんじゃのう」
「そうですね。一部の飲み物に限られますが、お客様からリクエストがあればラテアート付きで提供することも可能ですよ」
「ラテアートか! うむ、確かにその方がぐっとカフェっぽくなるのう。では、わしは抹茶ラテのラテアート付きで頼むとしよう。バリスタの腕前、期待しておるぞ」
「はい、かしこまりました。シャカさんはいかがですか?」
「……」
「……? なんじゃシャカ、一人でぼーっとしおってからに」
「いや、……そうだな。バリスタ、ここに載っているSTMJとはどのような飲み物だろうか」
今日が初対面のはずなのに、既に打ち解けているように見えたリリスとバリスタに言及すればまた一波乱ありそうな気がしたので、敢えて別の話題を持ちかける。
「普通の喫茶店では見かけないかもしれませんが、簡単に言い換えるとインドネシアのホットミルクです。インドネシア語のミルク、卵、はちみつ、生姜の各頭文字を繋げるとSTMJとなりまして。卵黄が苦手な方でなければ、はちみつの甘みと生姜のぴりっとした食感を楽しめるのではないかと思います」
「なるほど。ならば私は、そちらを注文するとしよう」
バリスタからの説明を聞いて、特に問題なさそうだと判断した私がそのように返答した直後、喫茶店のドアベルが軽やかに鳴らされる。
扉を開けたその人物は、すぐにバリスタと目を合わせて殊更嬉しそうな顔で彼女へと駆け寄った。
「やあ、バリスタ。お邪魔するよ」
「いらっしゃいませ、孔雀さん。本日は店内でお召し上がりになりますか?」
「本当は是非ともそうしたかったんだけど、ちょいと急な仕事が入ってしまってね。アンタの入れるコーヒーはまた後日、ゆっくりと楽しませてもらうことにするよ。ところで、……取り置きを頼んでおいた例の品、もうできあがっているかい?」
「はい。今朝の内に準備していましたので、すぐにお持ちしますね」
孔雀と呼ばれた女性に対してそう返事したバリスタが、急ぎ足でカウンターの奥へと向かう。時を経ずして戻ってきた彼女の手には、外の雨によって濡れないようにしっかりと梱包された小箱があり、それを見た女性はどこか恍惚とした表情を浮かべていた。
「お待たせしました。当店の定番プリンと、季節限定かぼちゃプリンの詰め合わせセットです。孔雀さんのご希望通り、それぞれ六個ずつ入っています」
「ああ、……相変わらず、アンタは丁寧でいい仕事振りだね。ふふっ、今朝は珍しく、うちのお祖母様もそわそわしていてね? とっても待ち遠しそうだったのよ」
「おつるさんにも楽しみにお待ちいただけているなんて、こちらこそ嬉しいです。また機会があれば、是非皆さんでおいでください」
「そうだね。このおみやげのおかげで、あともうひと頑張りはできそうだ。他の連中にもバリスタが会いたがっていたと伝えておこう。私も近い内、可愛いアンタにうっかり忘れられてしまわないように会いに来るから……それまでちゃんと、いい子で待っているんだよ?」
名残惜しそうにしながらも、バリスタに甘く囁いた女性が大事に小箱を受け取って喫茶店から立ち去っていく。
「もう、孔雀さんったら。また私のことを子ども扱いして……」
「……」
「……あっ、申し訳ありません! お二人のご注文も、すぐに用意しますので」
「バリスタ。プリンがあるのか?」
「え?」
「さっきの女性客が言っておったじゃろ。定番プリンと、季節限定のやつと。二つとも残っているのなら、わしもそれを食べてみたいぞ!」
「ええと、両方ともありますが、お持ち帰りではなく一緒に召し上がりますか?」
「うむ! こういうのは鮮度が大事じゃろうしの。ちょうど小腹も空いておったし、わしは二つともいただくとしよう」
「かしこまりました。シャカさんも、もし召し上がるのなら飲み物と一緒に提供可能ですが、今回はいかがいたしましょうか」
リリスからの追加注文を受けて、バリスタが私にも問いかける。私自身はリリスと同程度の空腹感がなかったので、先ほどの女性のようにそれぞれのプリンを持ち帰ることも可能か聞いてみると、バリスタに快く頷かれたのでそうしてもらうように頼んだ。
(それにしても、先ほどのバリスタの表情……)
孔雀という名前の女性に対して、バリスタが垣間見せた親密さと若干の恥じらいも含まれた表情を思い返すと、なぜだか胸の奥がざわめく心地がする。決して不愉快さを感じているわけではないのは分かる。しかしながら、一瞬の内に生じたそれは確実に私の中で波紋を描き、これまで彼女の笑顔しか知らなかった私にとってはどうにも衝撃的なもののようであった。
(この店に足を運んで、ほんの数回目だというのに――きみの笑顔ばかり、脳裏に浮かぶのはなぜなのか)
バリスタが戻ってくるまでの間、隣のリリスからはずっと怪訝そうに見られながらも、私は自身の内で発生したその疑問に長らく首を傾げていたのだった。