雨上がりの空を、あの日きみが見上げていたから。

 私がバリスタと出逢ったきっかけは、とても些細なものだった。
 ある日の研究室からの帰り道、豪雨によって道を歩くのすら容易ではなく軒先で立ち往生していた時のこと。ちょうど、喫茶店の扉を開いた彼女と目が合ったことが、そもそもの発端だったように思う。




「こんにちは。今日の雨、勢いがすごいですね」
「ああ。まさかとは思うが、……今から店を開けるのか?」
「はい。不定期営業なんですけど、この喫茶店は雨の日だけ開くようになっていまして」

 ――申し遅れました、「月時雨堂つきしぐれどう」店主のバリスタです。初めまして。

 喫茶店の扉を出てすぐのところに看板を立てかけた彼女が、私に対して穏やかに挨拶する。
 しかし、挨拶された私はといえば雨の日だけ開く、という特殊すぎる営業形態の店をこれまで耳にしたことがなく。この時点ではバリスタ自身よりも、むしろ店そのものに対しての興味の方が大きかった。

「今まで通りがかった際もここが閉ざされていたのは、そういう理由からだったのか」
「ええ。ここ暫くは、晴天続きでしたから」
「……雨の日しか開かない喫茶店なんて、随分と非効率的ではないかと思うが」

 不躾に呟いてしまったが、言われた本人は何でもなさそうに微笑む。

「そういう決まりなんです。雨音の中だからこそ、誰かが一息つけるようなお店にしたかったんだって、先代が」

 そのまっすぐな瞳からは、彼女が心に思い浮かべているらしい『先代』への憧憬が読み取れて。当然のことなのだが、目の前に佇んでいる彼女は私とは全く違う人生を送ってきた人なのだ、という事実に気付かされた。

「先代、ということは……店の外観が新しい辺り、きみは二代目の店主ということか?」
「そうですね。あっ、このまま立ち話というのもなんですし……もしお時間があれば、当店で一杯いかがでしょうか? 今なら温かいお飲み物つきで、ゆっくりとお過ごしいただけますけれども」
「……」

 普段の私であれば、見知らぬ第三者からの誘いなど結構、とすげなく断ってこの場から早々に立ち去っていたに違いない。
 それなのにこの時迷ってしまったのは――警戒心の欠片もなく、臆さず私に話しかけてきた彼女とならば。もう少しだけ言葉を交わしてみてもよいかもしれない、なんて思ってしまったからだったのかもしれない。

「……、いいだろう。きみからの提案を受けることにする」
「ありがとうございます。それでは、お店の中へどうぞ」

 私の返答に対して、嬉しそうに微笑んだ彼女自ら再び店の扉を開ける。
 チリン、と軽やかなドアベルの音とともに招かれたそこには――木目調の壁紙で覆われ、そこかしこに橙色の小さなランプが灯された、温かくも居心地の良さそうな空間が広がっていた。

「こちらが当店のメニュー表です。コーヒーの他にも、紅茶とココアと抹茶系、あとは変わり種としてミルク系のものもいくつか取扱っています」
「……、予想外に多いな。これを全て試すとしたら、それなりに根気が必要そうだ」
「ふふっ。いずれも先代から引き継いだメニューですが、私自身も今後、新しいレシピをつくりたいと思いながら試行錯誤しているところです」
「そうか。では早速、カプチーノで頼む」
「かしこまりました。少々お待ちください」

 私からの注文を受けて、バリスタと名乗った彼女がカウンターの奥へと向かう。外では相変わらず雨が降りしきる中、今この店内においては店主の彼女が立てる物音と、静かに流れている音楽だけで満ちていて。

(……こんな風に何もせず、ただ時を過ごしているのは。果たしていつ振りのことになるだろうか、)

 特に大学院へ進学してからの私は、日々の研究や課題などによって何かと多忙な場合も多く、ろくに季節すら振り返ってこなかったと思い返す。
 きちんと磨き上げられたテーブルに反射する橙色のランプの光を見ていると、頭も次第にぼんやりとしてきて。それはまるで、現世から隔絶されたかのような感覚だった。

「お待たせいたしました。当店のカプチーノです」

 目の前にカップが置かれた音によって、それまでぼやけていた意識が浮上する。全体的に淡い天色あまいろのカップと、おそらくはシナモンパウダーと思われる粉末が入っている小皿、それからコーヒースプーンも添えた彼女がにこやかに微笑んだ。

「シナモンパウダーも加えてお飲みになるかどうかは、お客様のお好みでどうぞ。甘みを足した方がよいなら、シロップ類やココアパウダーなどもありますが、今回はいかがいたしましょうか」
「そうだな……まずは甘みを足さずにこのまま飲んでみようと思っているから、今のところは必要ない。もしそれらを追加したい場合は、また後できみに声をかけるとしよう」

 私からの返事に一度頷いた彼女が、それではごゆっくり、と告げて再びカウンターの方に戻っていく。
 客側から声をかけようと思えば遠すぎない絶妙な距離に立ち、一体何をするのだろうと思って見ていると、どうやら一人で店のカトラリーを磨く作業に入るところのようであった。

(……客が一人しかいない状態の場合、やたらと話しかけてこようとしてきて煩わされる店員もたまにいるが。ひとまず彼女に関しては、そういったタイプの人物ではないらしい)

 そのことに内心安堵して、まずはシナモンパウダーをかけずにコーヒースプーンでミルクの層を少し掬い、そちらを頂いてからエスプレッソを一口飲んでみる。
 砂糖ほど甘くはない滑らかなミルクの甘みの後、濃厚且つ香ばしい味わいのエスプレッソによって雨で冷えていた身体が幾分か温められ、思わず一息ついてしまっていた。

(ステラの研究室に置かれている、市販のコーヒーメーカーとはまるで異なる深みがある。使われているコーヒー豆自体そうなのだろうが、研究室に常備されている紙コップではなく、このカップ自体も私の手とよく馴染んで飲みやすい)

 そうして途中でミルクとエスプレッソを混ぜつつ、シナモンパウダーもかけながら飲み進めていくと、カップが空になった頃には私の足を引き止めていた雨もすっかり止んでいて。店のカトラリーを磨き終えたバリスタが、颯爽と私の前を通り過ぎて扉を開けた。

「……雨、止んだみたいですね。ところどころ水溜まりこそありますけれど、これからお帰りになる際には問題なさそうです」
「そうか。雨が上がったら、その時点で閉店になるのか?」
「いいえ。一度雨が止んだとしても、お店自体は暫く開けていますよ。そんなに多くはないですけれど、稀に遠方から足を運んでくださる方もいらっしゃるので。まあ、今日は一時間も経たずに止んでしまいましたので、もしかしたらお客様以外の方はもういらっしゃらないかもしれませんが」
「……、シャカだ」
「え?」
「私の名前。今日はカプチーノだけの注文だったが、きみが入れる他の飲み物も飲んでみたいと思っている。雨が降る度に、というのはなかなか難しいかもしれんが……また機会があれば、ここを訪ねてきても構わないだろうか?」

 雨上がりの空を見上げていたバリスタが、私の方に振り返って心底嬉しそうに微笑んでみせる。
 それは、今日何度か笑顔を浮かべていた彼女の表情の中でもいっとう柔らかく、また温かなもので。

「はい。私も、シャカさんとまたお会いできる日を楽しみにお待ちしております」

 薄明光線を背景に、真面目にも一礼した彼女自身に対して並々ならぬ興味を抱く日が来ることを、この時の私は想像すらしていなかった。

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