きみに逢う前の私なら、きっと虹になんか気が付かなかった。
香ばしいコーヒーの香りが店内に満ちている。雷鳴が鳴り止まないほどのひどい天気なのに、決して憂鬱な気分にはならないのが我ながら不思議だ。
「シャカさん。コーヒーのおかわり、いかがですか?」
カウンターを挟んで、丁寧にカップを磨いていた彼女がこちらに声をかける。
大学の研究室に集う者たちとも異なる、柔らかい雰囲気を纏った目の前の彼女――この小さな喫茶店「月時雨堂」の店主であるバリスタのことについて。私が知っている情報は未だ少ない。
「ああ。いただこう」
「二杯目もエスプレッソでよろしいですか?」
「いや、……以前、きみがすすめてくれた生姜とミルクを入れたものを」
「ジンジャーラテですね。かしこまりました、すぐにご用意します」
最初の一杯として飲み終わっていたカップを下げると同時に、その言葉通りバリスタがジンジャーラテの準備に取りかかる。
雨の日しか開かないこの喫茶店に訪れる客は少なく、当然他の店と比べると繁盛しているとは言い難い。しかしながら、いつ訪れても清潔に保たれた店内と雨音をかき消さない程度のボリュームで流れている音楽、そして何よりもこの店の主であるバリスタから笑顔で迎えられて悪い気分になった客は、きっとこれまでいないのではないだろうかと思った。
「はー、散々な雨模様じゃ! やれやれ、ここまで来るのも難儀するわい」
そうこうしている内に、喫茶店の扉がやや豪快な音を立てて開かれる。老人口調に反して、バリスタと同年代くらいに見える声の主が私に気付かないはずもなく。目が合った瞬間、にやにやしながらこちらの了承も得ずに隣へと座ってきた。
「やっぱり、シャカもこの店に来ておったか」
「私がいることで何か不都合でも? リリス」
「ふん。わしを差し置いて居座っておったのは正直、気にくわんが……まあ、ここはバリスタの店じゃからの。わざわざ研究室の外で、おまえと言い争う必要もあるまい」
「リリスさん。いらっしゃいませ、またお会いできて嬉しいです」
「おっ、雨で濡れたわしを見てすぐにタオルも差し出してくれるとは。どこぞの誰かと違って、バリスタは気がきくのう」
「……、私が今更気を遣ったところで、リリスが素直に受け取る姿を想像できない」
思わず溜め息をついていると、それまで私とリリスのやりとりを見ていた彼女の口から小さな笑い声が漏れる。
「同じ研究室同士だと聞いていましたが、お二人は仲良しなんですね」
「仲良しィ? 言っておくがバリスタ、わしとシャカはそんな甘ったるい間柄ではないぞ! むしろ成果を競い合う、バチバチのやつなのだ!」
「ふふっ、そうでしたか。それは失礼致しました。ところで、リリスさんのご注文をお伺いしても?」
「むう、……本当に分かっておるのか、若干微妙じゃが。確かに、この雨に降られてわしの身体も少しばかり冷えたところじゃしの。そうだ、今回はシャイ・アデンで温めてもらうことにしようかの」
「かしこまりました。シャカさんのおかわりも、もうすぐできますので少しお待ちください」
リリスからの注文を受けて、軽く頷いたバリスタがすぐさまカウンターの奥へと向かう。まめな彼女はどうやら訪れた客の好みのカップも記憶しているらしく、リリスがこの店で愛用しているカップを取りにいったようだった。
「……、ふーん」
「……何か言いたげだな」
「別に? 今日も今日とて、仕事に忠実なバリスタの後ろ姿を、随分と熱い目で見ているやつがわしのすぐ近くにおるなあ~、と」
「そんな目はしていない」
「何を言うか。大体、口に入れられさえすればこれまで大して食事に関心のなかったおまえが、めちゃくちゃ天気を気にしながら二杯以上はこの店で飲んでいること自体、槍が降ってきてもおかしくないくらいの奇跡にも等しかろうて」
「……、家でも、全く何も飲まないわけではない」
「本当か~? よォし、だったら今度、シャカの家まで抜き打ちチェックにでも行くとするかのう!」
「全くありがたくないからやめろ。本当に行動したら、私からステラに申告するからな」
「ちぇっ。相変わらず、冗談の通じないやつじゃのお」
リリスとの会話によって本日二度目の溜め息をついていると、ちょうど私とリリスが注文していた飲み物を盆に乗せたバリスタがこちらへと戻ってきた。
木製の丸い盆には、夜空を思わせる群青色のカップと、森林を映しとったかのような新緑色のカップそれぞれがほのかに湯気を立てている。
「お待たせしました。ジンジャーラテと、シャイ・アデンです。熱いのでお気をつけて」
私の隣で目を輝かせたリリスが新緑色のカップを手に取り、せっかくのバリスタの忠告を無視してそのままカップへと口をつける。
「あちちっ! ……んんっ、じゃが今日も美味い! 甘さもほどよく、冷えていた身体が温まるのう」
「ありがとうございます。その一言が、私にとって何よりの励みになります」
忠告を無視されたというのに、そんなリリスのことを叱るでもなくむしろ微笑ましそうに見つめて笑ったバリスタが、安堵したように頷いてみせる。
そんな光景を横目に、私もやや遅れて取り残されていた群青色のカップを手に持つと、少しだけ息を吹きかけてからジンジャーラテへと口をつけた。コーヒーと生姜の苦味がありながらも、ミルクが加わっていることによってまろやかな口当たりのそれは私にとって飲みやすく、思わずほう、と息をつく。
「……、何回見ても、なかなか慣れないものじゃの。あのシャカが、一杯の飲み物をこうして味わって飲んでいる光景は」
「そんなに珍しいんですか?」
「そりゃあもう! 他の研究室の面子が今のシャカを見たら、二度見どころか十度見ぐらいはされるかもしれん」
「リリス。大袈裟に言いすぎるのはよくないぞ」
「全く大袈裟じゃないから言うとるんじゃろうが! このすっとこどっこい!」
いつしか外の雨音も気にならなくなるほど、店内は賑やかな空気に包まれる。
(……本当は、今日こそ彼女の口からバリスタ自身の話も聞いてみたかったのだが。仕方がない。また次の機会に改めるとしよう)
そんなことを思いながら、苦笑を浮かべてリリスを宥めている彼女のことをそっと見遣る。
このように私が思うのは、一種の知識欲がゆえか。或いは、また別の『何か』によるものなのか――残念ながら、今の私には未だその答えが分からず。人知れず、本日で三度目となる溜め息をつくのであった。