柳に雪折れなし
「火祭り?」
「ああ。年に一度、都の町人達によって催される盛大な祭りで……鬼ヶ島では役人達と百獣海賊団の宴が行われる」
いつも以上に眉間に皺を寄せて、なんだか難しそうな表情を浮かべていたドリィから聞かされたのは、近々この国で行われる予定のとある行事に関する説明だった。都では死者を弔うその行事において、飛び六胞である彼の場合これから単身鬼ヶ島へと向かわなくてはならないらしい。
「ブラックマリアから久し振りにの顔も見たい、と言われてはいるんだが。今回は将軍オロチだけではなく、百獣海賊団の荒くれ者も大勢集まってくることになる。それに……先日の件も考えると、には火祭りが終わるまでこの博羅町に留まっていてもらった方が、おれとしては安全を確保できるのでは、と考えている」
先日、という単語から今では消えたはずの手形を思い出し、首の辺りを軽く擦る。私を目の敵にしていた彼女たちがあれからどうなったのか、結局ドリィからは何も聞かされていない。しかし、彼女以上に当然腕力も強いであろう人々に取り囲まれたら、ただの一般人でしかない私はそれこそ一溜まりも無いのは自分でもよく理解できた。
ブラックマリアさんと時折交わす会話も悪いものではなかったが、彼女とて百獣海賊団の一員である以上、何らかの目的が発生すれば私を敵視する可能性もあり得るだろう。そのことに思い至ると、自然と溜め息が出てしまう。
(そういえば、ブラックマリアさん以外だとササキさんに一度会っただけで。他の飛び六胞の人たちのこと、あんまり知らないんだよね……)
そんな現状で鬼ヶ島へ着いていったところで、他の飛び六胞の人たちの機嫌を損ねさせるような事態が起きてしまったなら――結果的に、ドリィの仕事を増やすことにも繋がりかねない。それならばやはり、彼が言ったとおりここで大人しくしていた方が私にも無難なように思えた。
「そうだね。私の顔も見たいって言ってくれたブラックマリアさんには申し訳ないけれど、本当はまだ少し、外を出歩くのが怖い気持ちも残っているから。そのお祭りが終わるまで、私はドリィの提案通りここで待っているよ」
「……」
「……さっきよりずっと険しいお顔になっちゃったね。私が気にしなくていい、って言っても、ドリィは気にせずにいられないんだろうけれど」
「……すまない。きみに不自由を強いている現状を、おれも理解はしている」
「ううん。私一人じゃ、どうにもならないのは事実なんだし」
眉間に刻まれた皺が更に深くなり、私よりも重い溜め息をつくドリィの隣へと腰掛ける。
(きっと、大人になったドリィには私に言えないことも含めて、抱えているものが色々あるんだろうけれど)
それらについて、無闇に暴きたいとは思っていない。ただ、こうして彼と言葉を交わし、思いを汲み取ることならば私にも不可能ではないはずだから。
「っ、」
静かな室内で、おそらくは動揺を隠しきれなかったドリィの吐息が漏れる。間違いなく私の倍以上はある逞しい腕に寄りかかってみたところ、特に拒まれはしなかったが斜め上からこちらを凝視している彼の視線を強く感じた。それでも私は、敢えて目を閉じたままでドリィの腕に頭を寄せる。昔は幼い彼が私を見上げていたのに、年齢も体格も、すっかり追い越された現実をほんの少しだけ寂しいと思ってしまった。
「、」
「火祭りが終わったら、鬼ヶ島からここに戻ってくる?」
「ああ。その予定だが」
「そっか。嫌だったら断ってくれていいし、もしかしたら、ドリィにとっては余計なお世話かもしれないけれど……」
「……どうした?」
いきなり寄りかかられて困惑しているだろうに、振り払う気配もなく私の言葉を待っていてくれるドリィの優しさにほっとする。服越しでも伝わる彼の体温がひどく心地よい。だからなのか、その温もりがいっそのこと私の全身を駆け巡ってくれたら、さっきから収まらない妙な胸騒ぎも鎮めてくれるのではないかと期待しそうになる。
「この後、鬼ヶ島へ向かう前に。一回だけでいいから、ドリィを抱き締めさせてほしいの」
「なっ、」
「……あ、ええっと。やましい意味での触れあい、とかじゃなくて、単なる抱擁っていう意味で! いや、大人の男女だったらやっぱりやましいと思われちゃうのかな……その、戻ってくる予定だと教えてもらえたのはさておき、会えないんだなと思うと心細くてですね、」
絶句させてしまったドリィに対し、つらつらと言い訳のような言葉を並べ立てていると突然身体が圧迫されて息が詰まる。最初は何が起きたのか私自身も分かっていなかったが、数秒を経て漸く目の前のドリィに痛いほどきつく抱き締められているのだと気付いた。背中に回された彼の腕は私が身じろいだところでびくともせず、やっぱり男の人なんだなあ、なんて今更すぎる感想が頭の片隅にぼんやりと浮かぶ。
「まったく。、きみという人は……」
「う、あ、……ごめん。もしかして、気分悪くさせちゃった?」
「……、……ふふっ、」
溜め息交じりに呟いた彼に恐る恐る返事をすると、それまで込められていた力が緩み、小さな笑い声も零れる。
「そんなわけ、ないだろう? むしろ、何が何でもここへ戻ってこなくてはならない、と思わされているばかりだというのに」
「う、うん? まあ、ドリィが嫌じゃなさそうならよかったよ、うん」
「……その様子だと、ちっとも理解されていなさそうなのが残念ではあるが。まあ、いいさ。気が済むまで好きにしてくれ」
聞く人によっては三度見くらいされそうなことを言った後、いったん腕を離したドリィが穏やかな瞳でこちらを見下ろす。頷いた私はそんな彼を見上げながら、ひとまずその首元に自分の両腕を添えてみた。今度は私の吐息がドリィの襟足を掠めるのか、くすぐったそうに笑われても離れようとする素振りが見られないことに途方もなく安堵する。
(単なる杞憂であればいい。君が無事に帰ってきてくれたら、それだけで、私は充分だよ)
そうして、私たちが二人きりで密やかな抱擁を交わした数日後。都にたくさんの空船が打ち上げられ、祭りが終わろうとしていた頃にワノ国の新しい将軍が現れる。
この国の大半の人々が歓喜の涙を流す中、これまでの安寧が遂に失われたのだと悟った私は、ある一つの考えを巡らせていた。
◆
頭から羽織を被り、耳を塞ぎながらもどうにか眠りについた私は静寂の中で目を覚ます。
一瞬、眠っている間にドリィがここへ戻ってきてくれたのではないかと淡い期待を抱きかけたが、自分が立てる音以外に何も聞こえてこないのを知って早々に服を着替えた。夜が明けたばかりなのか、未だ辺りは薄暗く、どこかひんやりとした空気に身体が震える。
(……今までは、着物で過ごしていても特に問題なかったけれど。動きやすさから考えると、やっぱり洋服の方がよさそうね)
悩んだ末、この世界に迷い込んだばかりの頃に着ていた洋服の上に羽織を纏い、以前彼に贈られた大事な簪も忘れず頭に挿してから久し振りに外へ出た。それでも、いつだって私を見守っていてくれた彼の姿はどこにも見当たらない。不安と空しさで胸をかきむしりたくなったが、仮にそうしたところで何も進まないのも分かっていたから。
「一晩待っても帰ってこなかったら。その時は、私が君を見つけに行こうと思ったんだ」
誰も聞いていなくとも、とにかく自分の足を動かすことに集中して歩きはじめる。
今この時、鬼ヶ島のどこかでドリィが大変な目に遭っているのかもしれないと考えたら――無力な私でも、このまま何もせず待ち続けるのだけはどうしても、嫌だったのだ。
◇◇
『ねえ、ドリィ。この後、一緒に写真でも撮ろうか』
『写真?』
『うん。ついでに、このお守りもあげる。撮った写真はその中に入れておいたらいいかもね』
『これって、……もしかして、どこかのお店で買ったんじゃなくてがつくった?』
『よく分かったね。そうだよ。小さい頃、家族からつくり方を教わったものなんだけど、誰かに手渡すのも実はドリィが初めてなんだ』
『え、』
『よっぽど嫌じゃなかったら、君に受け取ってもらえると嬉しいけれど、どうかな?』
『嫌なわけない! ありがとう、……大事に、する』
『ふふっ、こちらこそ。私たちって、結構変わった出会い方だったと思うけど』
『ん?』
『この先、……ドリィが元の世界に戻って、私たちは別々の人生を生きていくことになっても。私はね。短い間でも、こうして君と暮らすことができて嬉しかった。ドリィのおかげで、とってもかけがえのない日々を送ることができたよ。だから本当に、君には感謝している』
『……』
『一人になったばかりの頃は、行く勇気が持てなかった墓参りにも着いてきてくれて助かったよ。ありがとうね』
『あれは、……おれじゃない人でも、どうにかなったんじゃないかな』
『ううん。私を案じてくれたドリィが、この手を握ってくれたから大丈夫だったんだよ』
――どうか、君のその優しさを。大きくなっても忘れないでいてね。
頭を撫でながら、温かい心の籠った眼差しをから向けられて。
幼心に、そんなきみに強く惹かれていたことを今でも覚えている。
(今のおれは、きみがあの頃言っていた優しさとは大きくかけ離れた存在になってしまったかもしれない。それでも、そうであったとしてもおれは、)
もう一度、おれの前に現れてくれた親愛なるきみへ。
願わくは再び、この手で誰よりも強くきみを抱き締めたかったが或いはそれすら伝えられずに終わってしまうのだろうか。
散々血を流しすぎた所為で意識も遠退く中、いつまで経っても戻ってこない自分を一人で待ち続けるを想うと、身体よりもずっと心の方が痛くてたまらなかった。
◆
「あっ、やっと起きた! ドレーク、大丈夫かい?」
意識を取り戻して最初に目にした光景は、戦いでどこもかしこもぼろぼろになっていた鬼ヶ島の天井ではなく、なぜかおれを見下ろしているヤマトの驚いた顔だった。
「ここは、……鬼ヶ島の城、ではないな」
「そのとおり。花の都の城内だよ。それから、こっちの方も見てごらん」
ヤマトから指差された方に視線を向けると、おれの腰辺りの位置で小さく丸まっているを見つけて思考が止まる。慌てて起き上がろうとするも、戦いで負った怪我が完治していなかった身体中のあちこちに鋭い痛みが走り、彼女に触れるどころかくぐもった声を漏らすことしかできなかった。
「なら、疲れて寝入っているみたいだからもう少しこのまま寝させてあげて。彼女、ここに着いてから三日以上、ずっときみの傍についていたんだから」
「……そう、なのか」
「うん。全ての戦いが終わった後、地上に落ちた鬼ヶ島に足を踏み入れようとしていた彼女を見かけた時はぼくも驚かされたよ。そのまま一人で進もうとしていたから、いったんを引き止めて話を聞いてみたらね。夜が明けてもドレークが戻ってこなかったから、鬼ヶ島で何かあったんだと思って博羅町から身一つで飛び出してきたんだって。彼女、ぼくを手当してくれた時もそうだったけど、いざという時すごく勇気のある人なんだね」
「……ああ。それはおれも、よく知っている」
視線の先、未だに隈が残っているの目元をゆっくりと指先でなぞる。
これまで以上に心配と不安をかけさせてしまったことを不甲斐なく思いながらも、心に湧き上がってくるのはおれを諦めないでいてくれた彼女に対する愛しさで、ヤマトの前だというのに口元が緩んでいくのを止められない。
「……ドレーク。きみ、そんな顔もできたんだね」
「どういう顔なのか鏡がないから確かめようもないが。おれをこんな風にさせられるのは、後にも先にもだけだろうな」
「そっか。がドレークに会いたいっていうから、以前手当してもらった恩返しも兼ねてここまできみの身体を移動してきたんだけど。うん、思っていたよりドレークも落ち着いているみたいで、ぼくとしても安心したよ」
「そうなのか。手間をかけさせたな」
「いいよ。あとは、ルフィたちが目覚めたらすぐにでも宴が始まりそうな感じだけど……ひとまず、きみとはここでゆっくり過ごしているといい。モモの助君たちにはぼくから伝えているから、そっちが敵意でも見せない限りは怪我が増えることもないと思うよ」
「分かった。百獣ですらなくなった今、おれもここで新たな諍いを起こすつもりは毛頭ない」
おれの返答に笑顔で頷いたヤマトは、ぼくもルフィたちへの願かけが残っているから、とだけ呟くと意気揚々とこの部屋から出て行った。しっかりと襖が閉ざされた室内で、耳を澄ませばの小さくも確かな寝息が聞こえてくる。その頭におれが贈った簪も挿されているのを見つけて、改めて心の奥底から彼女が欲しいと強く願った。
(おれは元の世界に戻ってきたが、きみのことはもう、あちらの世界へ帰してやりたいと思えなくなってしまった)
かつて一度だけ、ともに向かった墓参りに行きたいと乞われたとしてもおれは許せないと知ったら、優しいにも流石に怒られてしまうだろうか。
今なお深い眠りに落ちている無防備な寝顔を眺めながら、やはり彼女はおれにとって得難く、そして一生手放せない人なのだと噛みしめた。