竜と逆鱗
徐に靴を脱いだ彼女が、ワノ国の凪いだ海に足をつける。
おれが贈った着物を海水で濡らしてしまうのは申し訳ないから、という理由でわざわざ再会した日に身に着けていた服を纏ったは、数歩進んだところで軽くしゃがみ込むと片手に持っていた小さな硝子瓶を海中へと手放した。本人によって既に封をされた状態のそれには、なんでもの亡き家族に対する想いが綴られた手紙が入れられているらしい。
暫く元居た世界での墓参りには行けそうにない代わり、せめて自分の近況報告をしておきたいと告げてきた彼女から真っ直ぐな眼差しを向けられてしまったおれには、生憎そんなささやかな望みを撥ね除けられるほどの上手い言い訳すら思いつかず。情けないことに、浜辺からその背中を見つめているので精一杯だった。
「。あまり長く留まっていたら、足先から冷えてしまう」
だから早く陸へ上がるように、と伝えようとした瞬間。潮風を受けた彼女の姿がゆっくりと透けていって息を呑む。そんな予兆など今まで全くなかったくせに、どうしようもなく焦燥に駆られたおれに対し振り返ったはというと、どこか困った表情を浮かべていて。
「ドリィ、…… 、」
必死で伸ばした己の手は、きっとこれからも傍に在ると信じて疑わなかった温もりを掴められずにすり抜ける。
そうして波音が響くさなか、後に残されたのは彼女との別離を受け入れられずにただ絶叫を繰り返す、愚かな自分のみであった。
「ドリィ? ……ドリィ、大丈夫?」
「……、……う、」
「ごめんね。魘されているみたいだったから、勝手にドリィのお部屋に入っちゃった」
眩しい朝日を顔に浴びてようやく、先ほどの光景が現実ではなく夢だったのだと理解し、思わずおれの隣に座っていた彼女のことをじっと見つめてしまう。いまやすっかり馴染んだ様子でワノ国の着物を着ていたは目を瞬かせるも、ろくに声もかけられずにいたおれを見るに見かねてか、自身の羽織を脱いでこちらの肩にかけてくれた。そういえばこの羽織も以前おれがに贈っていたもので、今日も愛用してくれていたらしい彼女を想えば自然と口元が緩んでしまう。
「ここ数日も相変わらず忙しそうだなあ、とは思っていたけれど。布団じゃなくて、机に突っ伏して寝ていたら流石にきつかったでしょうに」
「ああ、……色々と、考えなくてはいけないことがあって。目を閉じていた内にそのまま眠ってしまったようだ」
いっそ凝り固まっているかもしれない眉間を指先で揉んでいると、手拭いも差し出されたのでありがたく受け取り顔を拭く。
(これからもが傍にいる、なんて……そんな確証、未だ一つも見つかっていないのに)
見つかっていなくともそう信じていられたのは、現時点で彼女がワノ国に迷い込んでそれなりの月日が流れているにも関わらず、あちらの世界へ戻りそうな兆候が一つも見受けられないためであった。しかし、もしも今朝見た夢と同じくが唐突に目の前から掻き消えてしまったら――おれには到底、その事実を受け入れられないだろうとも思う。
もう一生会えない可能性の方が高かったに違いない彼女が、初めて出逢った時とほぼ変わらない姿で再びおれの前に現れたのだから。心の奥底で長年焦がれ続けていた恩人であり、且つ想い人でもあるを簡単に諦めるなど、そもそも前提からして有り得ない話だ。
「ドリィ、お疲れさま。本当に大丈夫? 無理は禁物だからね」
そう言って、おれを心配してくれているの様子に実は途方もない幸せを感じているなど、彼女自身はこの瞬間予想すらしていないだろう。
けれどもそれで構わない。この世界で、彼女が誰よりもおれを頼り、そして傍にいてくれるのなら。会うことさえも困難だった長い月日の分、この心ごと満ちていく未来しか考えつかなかった。
◇◇
「そうだね。あなたが言ったとおり、彼は私が居なくても生きていけるほどに逞しくて、とても強い人なんだってこと。私も、よく知っているよ」
夢見がかなり悪かったのか、顔色も優れなかったのに今日も朝早くから出かけていったドリィをどうにか元気づけたいと思った私は、一人で大通りを歩いていた最中横から伸びてきた誰かの手に引きずり込まれてそのまま意識を失った。直前に見えた景色は薄暗い路地裏だったはずなのに、目覚めた自分がどこかの座敷と思わしき場所にいたことに驚いたが、やがて私の前に現れた彼女の表情でおおよそ何が起きたのかを察する。
「私に対してたくさん気を遣ってくれていることも。多分、私の知らないところで少なからず迷惑をかけていることも。そこもちゃんと、分かっている」
いつか鬼ヶ島でドリィにしなだれかかっていたその女性は、華やかに着飾ってはいたもののどこか苛立ちを隠しきれない様子で私を見下ろしていた。
――何も持たないおまえのような女が、あの人に庇護されるなど間違っている。
微かな歯軋りとともに憎々しく告げられた彼女のその言葉も含めて、私は拒まずに受け止める。どのみち、手足を縛られている今の状態では他にできそうな行動もなかった。
「これまでの日々を通して、少しずつ覚悟もしてきたんだ。ある日突然、彼に手を離されてこれからは一緒にいることができない。別の場所で生きてほしいと言われたとしても」
――私は、ドリィを恨まない。私を追い越し、大人になった彼が下す決断を尊重しようと決めていた。
「だって、本当に感謝しているからね。一緒に戦えるわけでもなく、ましてお金を持っていたわけでもなかった私に今日まで優しく接してくれたこと。この先の人生でも、なるべく忘れたくはないなあ。それほどに、彼との日々は私にとって、かけがえのない時間だったの」
言うなれば修羅場にも等しいのに、こんな時でも思い起こされるのは大きくなった身体で幾度も私を抱き上げてくれたドリィとの触れあいばかりで笑ってしまう。日が高くともなるべく不必要な外出は控えてほしい、と言われていたのを破ってまで外に出た罰が今日当たってしまったのかもしれない。
(それでも、彼にとっての私が最後まで有益な存在ではなかったとしても。私はせめて、ドリィが安らげるような何かをしてあげたかった)
惜しむらくは、それを見つけきる前に激高した彼女によって捕まってしまったことか。
ごく僅かな期待を込めて呟いた自分の言葉も彼女を止めるには至らず、髪に挿していた簪を無理矢理引き剥がされて床の上へと倒れ込む。怒りに突き動かされた彼女はもはや正気ではない。それが分かったところで、呼吸すらままならない私ではどうにもならなかった。
「私を傷つけたとして、彼はそういった行為を喜ぶ人でもないよ。そんなこと、本当はあなた自身が一番、よく分かっているのでしょう?」
「だから、ねえ、」
「お願い。それは、……ドリィが贈ってくれたこの髪飾りだけは。どうかこれ以上、踏み躙らないで、」
◇◇
ぐったりと横になっているの姿が目に入った瞬間、その前に立ちはだかっていた女を突き飛ばしてでもすぐさま彼女へと駆け寄る。髪が乱れ、頬も腫れていたは辛うじて息をしていたが、その首にうっすらと手形がつけられていることも理解して耐え難い怒気に身が震えた。
本当に殺すつもりではなく痛い目に遭わせたかった、などと耳障りな弁解が聞こえてきたが、ついさっきまで踏みつけられていた彼女の簪も忘れず回収してからこの事態を引き起こした元凶を見下ろす。
「二度目はあっても、三度目は無い。おれにそう言われていたことすら忘れたのか?」
「う、あ、」
「おまえに心酔しているこの遊郭の男たちまで巻き込み、よりにもよっておれの恩人である彼女を直接攫ってくるとは……抵抗すら叶わないをこんなにも嬲って、なあ、楽しかったか」
「し、知らなかった。ごめんなさ、」
「謝る相手が違う」
青ざめながらも今更彼女に手を伸ばそうとしてきた女を自身の尻尾で振り払う。思いきり座敷の隅に身体をぶつけた女は甲高い悲鳴を上げたが、それを聞いた誰かが駆け寄ってくることもない。ここに辿り着くまでにおれが敵と判断した者たちは全て気絶させてきたからだが、しんと静まりかえった遊郭の様子にいよいよ女が怯えはじめた。
「違う、違うの、こんなはずじゃ、」
「……何を勘違いしていたのか知らないし、知りたくもないが。おれがおまえを望むことは今後一切有り得ない。そして、ここも終わりだ」
おれに立ち向かってきた男たちを薙ぎ払う過程で、少なからずぼろぼろになったこの遊郭を持ち直すにはそれなりの金と時間もかかるだろう。最後に対峙した遊郭の主が恨みがましくこの女の名を呟いていた気もするが、その後どうなっていくのかはおれの知ったことではない。
完全に戦意を喪失した末に崩れ落ちた女を無視し、未だ意識が戻らないを抱えてこの場所から立ち去る。今はただ、一刻でも早く彼女に目覚めてほしかった。
◇◇
帯の上に置かれている彼の手は相変わらず頑丈で、私一人の力ではほどけそうにもない。
それを知っていてもずっとこのまま、というわけにもいかないだろうから催促を兼ねてこっそりどかそうとしていた私の手まで丸ごと包み込まれてしまい、果たして今日で何回目になるのか分からない溜め息が零れた。
「。すまないが、あともう少しの間だけこうさせてくれ」
後ろからちゃっかり私を抱き寄せて座っている、彼の吐息が項へと触れるたび。その擽ったさに身を捩る。けれどもそんな私を離すどころか、重ねてすまないと言いつつ更に強く引っ付いてきたドリィの様子に苦笑いしか出てこない。
(なんだか前にも増して、ドリィが過保護になっちゃった気がする。まあ、……あんなことがあったせいで、私も当分外を出歩く気分にはならないけれど)
ひとまず彼に保護されているこの場所で大人しくしていれば、数日前に経験した危機的状況に陥ることもそうそうないと信じたい。
とはいえ、彼が飛び六胞としての仕事等で外出する前になぜか決まって行われるようになったこの行為に関しては、私とて多少の恥じらいがある。だからそんなに心配しなくても大丈夫だよ、と伝えて今日こそはやんわり断ろうとしたのに――言った直後、何とも言えない表情を浮かべたドリィから無言で見下ろされ続けることとなり。結局、そんな彼に負けた私は、今日もこの逞しい腕の中へ大事に収められているのだった。