悋気嫉妬も正直の心より起こる
飛び六胞という肩書きを持つ彼の傍にいるのなら、いつかはこんな場面に遭遇することもあるのだろうと思っていた。
「ドレーク様。ぬしと長らく会えなくて、あちき、寂しかったでありんす」
そう言って、ブラックマリアさんの遊郭では見た覚えのない豪奢な着物と簪を身に着けていた女性がドリィの身体へとしなだれかかる。
飛び六胞としての仕事の都合、ということで鬼ヶ島にある城の一室まで連れてこられた矢先。すぐに戻ると言っていたはずの彼がなかなか戻ってこないのを心配して、少しだけ部屋の外に出てみた結果、私が目撃している光景は正しく美男美女の逢瀬というものに他ならなかった。
(確か、今日は花の都から何人か遊女や芸者の方も来ているって言っていたけどその中の人? なのかな。ドリィ、お付き合いしている人いたんだ。知らなかった……私には、言いづらかったのかなあ)
廊下の端から隠れて二人を眺めている私には彼の背中しか見えず、果たしてドリィがどんな表情を浮かべているのかまでは分からなかったが、今なおうっとりとした顔で彼を見上げている彼女は私から見ても大層愛らしい人だと思えた。あんな風に甘えられて、剰え身を寄せられたなら、大半の男性が彼女に夢中になってしまいそうな気もする。
そもそも仕事のため、と簡単に説明されてはいたが、もしかするとここで彼女について紹介しておきたいという意図も含まれていたのだろうか。そんなこととは露知らず、素直についてきていた私は今更自分の無知が恥ずかしくなってきて俯く。
(まあ、普通にあり得る話だよね。ドリィはきっと、昔一緒に暮らしていた縁から私に気を遣ってくれているのであって。今の私に彼女以上の魅力があるとも思えないし)
人の心とは移ろうものだ。それに、どんな物事においても永遠なんて存在しない。
それを分かっていても、この世界に迷い込んだばかりの頃。私に簪を贈ってくれた彼の照れた姿が頭に焼きついて離れず――彼女の好意を受け入れるドリィを見ていたくなくて。
この時、完全に冷静さを欠いていた私はこの場を立ち去ろうとするので頭がいっぱいになっていたのもあり、当のドリィが恐ろしく冷たい目で彼女を見下ろしていたとは想像もしていなかったのである。
◆
「……流石に、今はブラックマリアさんたちも忙しそうね」
本来ならば連れてこられていた城の一室へ大人しく引き返し、ドリィが戻ってくるのを待っておくべきだと理解していたが、どうにも落ち着かずブラックマリアさんの遊郭の前まで来てしまった私は一人きりで途方に暮れた。外に漏れるほどの歓声や三味線の音の大きさから皆宴に興じているらしく、私がいることには誰も気付いていないようだ。
正直、今声をかけられても普通に応えられる元気はなかったので、ひとまず遊郭の前に設けられた橋をゆっくり歩くことにする。頭上に咲く藤の花や灯籠の光を反射している水場はどちらも幻想的で美しい。それなのに、そんな光景が広がっているここが鬼ヶ島と呼ばれる場所の一画であることにも、未だ心の奥底では信じきれていなかった。
(なんというか、……この世界に迷い込んで早々、ドリィは何かと私を助けてくれていたから。それもあって、さっきの光景に私自身驚いちゃっているところもあるんだろうなあ)
この後彼にお付き合いしている人を紹介される、と考えてみた際に寂しくないと言えるかといえば、それは嘘になるのだけれど。彼にとって大事な人ができたのなら、そこで祝福の言葉もかけないほど今の私は狭量な人間ではないつもりだ。
この先のドリィがどんな人生を送るにせよ――彼がこちらの世界へ戻った時のように、私もまた、元居た世界に戻ることで彼と離れ離れになる瞬間が訪れるとしても。私は、私を助けてくれたドリィの意志を最も尊重したいし、たとえ隣にいられなくたって彼の無事を願うのは許されたいと願っている。
そう願ってしまうほどに、いつしか私の中でドリィの存在はとても大きくなっていて。
だからこそ寂しくないはずがないのだ、と今になって気付かされた。
先ほどの二人の逢瀬は予想外だったものの、こんな風に一人になる機会がなければ得られなかった気付きを思えば、或いは今日が彼との関係性を改めて振り返る良いきっかけになったかもしれない。
「うん。外の空気を吸ったおかげか、ちょっとは気が楽になった。そろそろ部屋に戻ろうかな、……あれ?」
来た道を振り返ろうとする直前、橋の先から微かな呻き声が聞こえた気がしたのでよくよく目を凝らす。真っ赤な欄干の手前。そこには、金棒を持った誰かがぽつんと蹲っていた。
◇◇
豪奢な着物越しに漂う妙に甘やかな匂いと、懲りずに己を見上げ続けているどうにも甘ったるく媚びた視線。
普通の男ならば警戒心すら抱かずほだされていただろうそれらは、を待たせている部屋に戻ろうとしていたおれにとって不愉快な代物でしかなく。また、勝手にこちらへしなだれかかってきた女を敵と見なすには充分すぎる要因だった。
「きゃっ、」
「一度きっぱり断ったにも関わらず、おれの前に姿を現すとは。嬉しくないしぶとさだな」
ワノ国の花魁である小紫には及ばないまでも、それなりに見目が整っており宴席で愛嬌を振りまいていた女は、おれが靡かないことにやっと思い至ったのか初めて苛立った表情を見せた。大方、その素振りで落ちた男たちにちやほやされるのがこれまで当たり前だったのだろう。
断られた時点で脈がない、と引き下がってくれたらおれとてこれ以上何も思わなかったのに、プライドが高い性格なのか諦めるという選択肢を選びそうにはない女の形相に溜め息が出る。こうしている間にも、とともに過ごせる今日の時間が刻一刻と減っているのを実に勿体ないと感じる辺り、おれもぶれない男だなとどこか他人事のように思った。
「あ、あちきをこんなにも弄んでおいて! ひどい人!」
「ほう。たかだか数回、百獣海賊団の宴席で顔を合わせたことがある程度で……おれからそちらに接触してきたことも一切ないのに、弄んだ、と抜かすか」
同じく飛び六胞であるササキやフーズ・フーだったならば、めげずに近寄ってくる女を面白がって相手にしていたかもしれないが、徐々に機嫌が悪くなりつつあるおれには何一つ興味が沸いてこなかった。ゆえに、敢えて殺気を隠さず睨みつければ一気に顔色の悪くなった女が腰を抜かして座り込む。
「ひいっ」
「警告だ。二度目はあっても、三度目は無いと思え」
すっかり青褪めた女にそれだけ言い捨てた後、漸く通ることができるようになった廊下を足早に駆ける。まずは想定していた以上の時間がかかってしまったことを詫びなくては、と考えながら辿り着いた襖の先に会いたかった彼女は見当たらず――伽藍堂になっていた部屋の中で、思わず零れた舌打ちの音だけがやけに空しく響いていた。
◆
「ヤマトくん。頭の怪我、本当に大丈夫?」
「ああ。返り討ちにあってしまったが、カイドウに殴られるのは別に今日が初めてじゃないんだ。と言っても、今回は当たり所が悪かったのか流れた血の量が多くてね。ここを通りがかったキミが、手拭いを持っていてくれて助かった。心配してくれてありがとう」
自ら部屋の外に出たのだとしたら、の足ではそう遠くまで行っていないはず。
そんな希望的観測を元に彼女が熟知していない城内ではなく、何度か案内したこともあったブラックマリアの遊郭の方へ向かってみると、長い橋の先でなぜかヤマトと座り込んでいるを見つけられたので胸を撫で下ろす。勿論最悪の可能性――彼女が、おれの目を離した隙にあちらの世界へ戻ってしまった可能性も捨てきれなかったが、怪我を負っているヤマトを見るに二人は偶々出くわしただけのようだ。
「……」
「そう、泣きそうな顔をしないでくれ。大丈夫。これでも僕は頑丈なんだ。血が止まりさえすれば、また動けるようになる」
「……、うん」
「ふふっ。キミとは、さっき会ったばかりのはずなのに……僕に対する敵意や期待が無かったからかな? キミが隣にいてくれると、なんだかとても落ち着くんだ。僕にとっても不思議なことに、ね」
「ヤマトくん……」
藤の花の下、密やかに話しているヤマトがへ向ける眼差しは随分と穏やかなもので。なんとなくヤマトに掻っ攫われてもおかしくなさそうな空気を感じ取り、慌てての傍に駆け寄るなり彼女の身体を抱き上げる。
「わっ、……ドリィ? どうしてここに、」
「遅くなってすまない。部屋に戻ったらきみがいなかったから、他に行く宛があるとしたらこの辺りだろうかと思ってな」
「……」
「?」
「さっきの、……ええと。着飾っていたドリィの恋人さんとは、一緒にいなくていいの?」
「……、……は?」
「廊下でね、ドリィとの再会をすごく嬉しそうにしているところを見ちゃって。てっきり、私はあの人とドリィがお付き合いをしているのかなあ、とか考えていたんだけど」
困惑を隠しきれていないから告げられた内容に、すぐさま言葉が出てこなかった。
しかし『着飾っていた』『廊下』『再会』といった単語から察するに、おそらく部屋へ戻る前に立ち塞がっていたあの女と相対していた場面を彼女にも見られたのだと考えれば、残念ながら辻褄は合う。
「ええっ!? ドレーク、キミ、恋人がいたのかい?」
「断じて違う。ヤマト、頼むから話をややこしくするな」
「えっ。違うの?」
「ああ。以前にも声をかけられはしたが、その時向こうに応じる気はないとはっきり伝えていたんだ。大体、ろくに会話を交わしていない相手に距離を詰められたところでおれには不信感しかなかった。罠の可能性だってあるし、あんな誘い方で鼻の下を伸ばせるのは……まあ、よほど下心の強い野郎共くらいだろう」
横から突っ込んできたヤマトを抑えつつ、あの女との恋人関係はありえないと説明してからの手を取りまっすぐに彼女を見つめる。せめて、これでおれの誠意が彼女にも伝わってくれるとよいのだが。
「っ、」
「きみを不安にさせたのなら、その分言葉と行動の両方で尽くす努力もしよう。だが、いくら他の女に乞われたところでおれの心は揺らがない。既にきみがいるからだ。俺がそう思っていることを、どうかきみも忘れないでいてほしい」
「……、うん。分かった」
ぎこちなくも確かに頷いてくれたを前に、有り余るほどの愛しさが込み上げてくる。
いっそのこと、このまま己の思いの丈も打ち明けてしまいたい衝動に駆られそうになったが、生憎興味津々な様子でおれとを見ているヤマトがいるので今日は止めておいた方が無難だろう。
――そう呑気に考えていたおれは、後日、望んでなどいなかった『三度目』で危うくを奪われかけ、花の都のとある遊郭を壊滅寸前まで追いやることになる。