鬼が出るか蛇が出るか

(あの子と暮らしていた頃は、結局一度もお酒を飲まなかったなあ……)

 かつて子どもだったドリィに悪影響を与えたらいけないと思い、当時遠ざけていた濃醇な味わいが口の中にゆっくりと広がる。
 この世界に迷い込んで以来、お酒を飲むのはかなり久し振りだったが、それなりの度数であるにも関わらず今のところ意識への変化は無く。おそらく顔色すら変わっていない私を見て、同席しているブラックマリアさんは面白そうに微笑んでいた。

「お前さん、見かけによらず結構酒に強いんだね。ちょっと意外だったわ」
「故郷でもよく言われていました。元々お酒に強い人が多い家系だったんですけど、知り合いにもおつまみを食べながら飲み比べするのが好きな人たちがいて。色々おすすめされている内に慣れたおかげか、酔ったことがないですね」
「ほう、そいつは羨ましい! いくら飲んでも飲まれない、っていうのは、酒飲みからするとまさに最高の体質なんじゃねェか?」

 そう言って、ブラックマリアさん以上に上機嫌な男の人から新しくお酒を注がれる。気遣わせてしまった点を謝るよりも、頂いたお酒を美味しく飲む方が喜ばれる気がしたためお礼を伝えた上で一口付けると、予想通りその人の機嫌は更に良くなったようだった。

「どうでしょう。私としては、酩酊……とまではいかずとも、一度くらいほろ酔いという状態を体感してみたいところですが。いきなり飲む頻度が増えたら身体が驚きそうですし、やっぱり、偶に味わう程度が性に合っている気もします」
「まあ確かに、タガが外れてぶっ倒れちまったらそれこそどうしようもないよな。しかし、おれのつくった酒をここまで美味そうに飲める女がいたとは。いい意味で驚いたぜ」
「ふふっ。ササキの酒は美味いけれど、常人には刺激が強い場合もあるようだね。遊郭の子とて最初の一杯で飲まれそうになるのに、が飲む姿は不思議と見ていて飽きないよ」

 両肩に入れ墨を彫っており、屈強な体格の持ち主でもあるその人――ササキさんはブラックマリアさんやドリィと同じく、飛び六胞の一人だそうで。
 本来、ただの一般人である私がこの場にいるのもおかしな話なのだけれど、そもそも戦力外の存在であることは最初の時点で見抜かれていたのだろう。特に訝しげな視線を向けられるでもなく、ササキさん手作りのお酒を飲んでいる私たちの間には和やかな空気が流れている。

「それにしても、本当にいい飲みっぷりだ。縁があるなら次の宴でも酌み交わしたいくらいなんだが……嬢ちゃん、ブラックマリアのところの新入りかい?」
「残念ながら違うんだよ、ササキ。生憎、私よりも先にこの子を見つけていた男がいてね」
「へえ。本人から聞いたことはねぇが、もしや狂死郎の秘蔵っ子とか?」
「そっちも外れだね。おや、……噂をすれば、早速やって来たみたいだよ」

 ここ数日、かなり忙しかったのかちゃんと眠れているかも怪しい様子を見かねて書き置きを残してきていたのに、彼は気付かなかったのだろうか。ほどなくして開け放たれた襖の先には、珍しく険しい表情をしているドリィが佇んでいた。

「くくっ。今日は一段と眉間の皺が酷いことになっているねえ。さてはこの子の姿が見当たらなくて、相当焦りながらすっ飛んできたと見える」
「……」
「なるほど。ドレークの知り合いだったのか」
「うーん……知り合い、といいますか、」

 一時期、彼が私の家で暮らしていた過去を伝えた場合。以前ブラックマリアさんに言われたように、ササキさんにも私とドリィが『そういう仲』と思われる気がして言葉に詰まる。
 私たちの関係性とは、強いて言えば家族に近しいもの――と勝手に思っている反面、もしもドリィ本人に否定されたらまたややこしい事態に成り得るだろう。そう考えると、家族という単語を安易に口にするのも憚られて、ますます言い淀んでしまう。

(となると、お世話になっている隣人……? もしくは、年の離れた友人、くらいの言い方がここでは無難なのかしら)

 或いはそれらもひっくるめて、ひとまず保護者と答えておくのもありかなと思い巡らせていたところ、ふいに頬を撫でられる感触がしてびっくりする。触れた手は一瞬で離れていったが、今なお愉快そうに細められた瞳はまるで三日月を思わせて。きっと酒の席での戯れに過ぎないのだろう、と頭では分かっていても、どこかひやりとさせられるものだった。

「ササキ、さん……?」
「即答が難しい関係性なら。別におれも、嬢ちゃんと仲良くしたって構わねぇよなァ?」

 その問いかけに答えるより早く、私の身体には長い尻尾が巻き付けられていた。

    ◇◇

 目の前でにやにやと笑っているササキの言葉を聞いた直後。寸分の迷いもなく、能力を発現させるとそのままを引き寄せて、すぐさま腕の中へと閉じ込める。
 そうして彼女の身体から漂ってきた酒気に思わず溜め息をつきたくなったが、おれにはそちらよりも先に優先すべきことがあった。

「ササキ。おれの恩人でもある彼女に、余計な手出しは無用だ」

 ――だが、おまえが再びに触れようとするのならば。その時は決して容赦しない。

 ササキの返事に耳を傾けるつもりもなかったおれは、それだけ伝えるととともに踵を返す。
 今はただ、一刻も早く彼女を連れ出して二人きりになりたかった。

    ◆

「ドリィ。えーっと、……怒ってる?」
「……」
「書き置きだけ残していったのは私も悪かったなあ、って反省しているよ。心配かけてごめんなさい。ただ、最近忙しそうでろくに眠れていなさそうだったから、ドリィにも偶にはゆっくり休んでほしかったというか」
「……」
「聞こえていたかもしれないけれど、私、これまで酔ったことがない体質でね。ササキさんがつくったお酒を頂いても平気だった。それに、長居をするつもりもなかったんだよ?」
「……」
「……今の私、かなりお酒くさいはずだよね。こんなに近いところにいたら、そろそろドリィも気分悪くなってきているんじゃない?」
「大丈夫だ。おれの体調については何も問題ない」
「本当に? もう、ドリィったら。私の話に全然反応してくれないし。どうしたらいいのかいよいよ分からなくなるところだった」

 そう言って、あからさまにほっとした様子で顔を緩ませた彼女に対し、もはや何度目になるのか分からない溜め息が零れる。
 自分自身よりおれのことを気にかけているは相変わらず無防備で、もやもやとした心のまま作業を続けていると困惑が隠せていない声で名前を呼ばれた。

「ところで、この状態っていつまで続くの?」
「もう少し。消毒は大事だと、昔のきみもおれに言っていたぞ」
「ああ、うん。覚えているけど、多分ササキさんもあれは本気で言っていたわけじゃないから、そこまで気にしなくて、っんん、」
「きみがそう言っても。おれの方は、……本当に、腸が煮えくり返りそうだった」

 自室に戻ってきてから、の頬へ当て続けていた手拭いをいったん外し、代わりに自分の手を添えてみる。おれが少しでも力を加えたら簡単に傷ついてしまうだろう、そんな柔らかい存在である彼女をみすみす弄ばれる可能性があったことを思うと、今更ながら肝が冷えた。
 なのに、当の彼女は今おれに触れられても全く嫌がる素振りを見せていないのだから困ったものだ。振り払われないのは嬉しいが、それはそれとして男に対する警戒心も忘れないでいてほしかったのは酷な話だろうか。

「ドリィ、すごく疲れた顔してる。改めて、今日のことごめんね?」
「……、いや、おれも戻ってきてからに謝らせてばかりで、思えば心が狭くなっていた。もう、謝らなくていい。きみが無事でいてくれてよかった」

 最初からそう伝えられたのならよかったものを、おれと目を合わせて申し訳なさそうな表情を浮かべた彼女に気付き、そこでようやく口に出せる程度におれは不器用な男で。
 それでも、がおれに笑いかけてくれる度どうかこの先もおれを頼ってほしいと。おれと生きてほしい、と願うことを止められないでいるのは――ひとえに、ずっと昔から在った彼女への恋情からなのだろう。

「ふふっ。不思議だなあ」
「……ん?」
「ササキさんの手に撫でられた時は、ちょっぴり怖かったのに。今、私の頬に触れているドリィの手はとてもあったかくて。こうしていると、なんだか幸せな気分になってくるの」
「なっ、」
「ドリィ。私を見つけて、大事にしてくれてありがとう」

 目を閉じた彼女は、無骨なおれの手の上に自分の小さな手も重ねてにこにこと微笑む。
 その可愛らしい仕草に心臓が痛くなるほど跳ねたが、幸い彼女には気付かれず。最後までどうにか耐え抜いたおれは、人知れず深い溜め息をつくことになるのだった。

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