思えば思わるる

「もしもいつか、私があの子にとっての背負いきれない荷物と化してしまったら。その時は運が尽きたとでも思って、自分の死に場所を探しに行きますよ」

 ――唯一、家族の墓参りができなくなることは心苦しいですが、きっと皆許してくれると思います。
 あの子に手を離されても恨みはしません。
 それにもう充分すぎるほど、私はあの子に助けてもらえましたから。

    ◆

 襖一枚隔てて聞こえてきた、憂いを帯びた彼女の声と言葉に頭が一瞬真っ白になった。
 荷物だなんてとんでもない。おれはそんなこと、彼女に対して一度も思ったことがなかった。
 それどころか、運良く今おれが滞在しているワノ国に現れてくれた彼女をどうすれば『あの別世界』へ帰さずに済むのか。願わくは一生、おれの傍に彼女を留めておける有効な手立てがあるかどうかも含めて調べているところだというのに。

「へえ。お前さん、なかなか言うね。流石あの男が見初めただけのことはある」
「うーん……見初めた、というのとはまた違うような……? 昔私があの子を助けた機会があったから、その分保護してもらえているだけではないかと」
「おや、そうなのかい? 私はてっきり、ドレークがお前さんを連れてきたあの日から二人はそういう仲かと思っていたよ」
「なぜか部屋が隣同士でしたが、それは多分、私が妙な真似をしないかの監視も兼ねていたんじゃないでしょうか。ところでブラックマリアさんの遊郭って、あの子も訪れています?」
「それが全然。一度声をかけてみたら、他にやることがあるからってすげなく断られてしまってねえ。以来、飛び六胞の用事で来たとしてもすぐに出ていかれてしまうくらいさ」
「あら、ちょっと意外ですね。あの子は真面目で優しいし、てっきり遊郭の方々からの人気もかなり高いんだろうなあ、と思っていたのですが」
「ふうん。真面目で優しい……ねえ?」

 いかにも楽しげに呟いたブラックマリアが、果たして彼女相手に何を思っているのか。
 わざわざそれを問い質す気はなかったが、これ以上おれが近くにいることにも気付いている上で彼女とのことを根掘り葉掘り聞かれるのは気が乗らなかったため、溜め息を一つついてから遠慮なく襖を開け放つ。
 ワノ国の着物を身に纏い、おれが選んだ簪も身に着けている彼女はブラックマリアからおれに視線を移して首を傾げた。
 そんな些細な仕草でさえも愛らしく、今更ながらにずるい人だと思う。

「ドリィ、おかえりなさい。今日は早かったね。もうお仕事終わったの?」
「ああ。部屋にいなかったから迎えに来た」
「……やれやれ。女同士のお喋りもゆっくり待てないのかい、ドレーク」
「おれがいない時に連れ回されて居場所が分からなくなるのは困る。それだけだ」

 興味深そうなブラックマリアの視線を流し、両腕でいつもどおりに彼女を抱き上げる。互いの身長差からどうしても歩幅が異なり、普通に歩くとだいぶ彼女の歩みが遅れてしまうことに気付かされてからは、二人で移動する際こうするのがほぼ日常となった。
 未だに彼女には恥ずかしそうにされてしまうが、胸元に感じる体温となんだかんだおれの腕に掴まってくれる柔いてのひらの感触の両方とも心地よくて癒される。

「しょうがないねえ。まあ、今日は諦めるとしてまた今度、うるちゃんたちも交えて話せたらいいかしら? いろいろと教えてくれてありがとうね、
「いえ。私もブラックマリアさんとお話できて楽しかったです」
「……」
「ふふっ。そう睨まずとも、私だってここで彼女を取って食うような野蛮な真似はしないわよ? もっとも、今のところは、だけどね」
「……」
「……ドリィ?」
「……なんでもない。戻るぞ」

 くすくす、と笑っているブラックマリアに背を向けると、足早に現在与えられている自室へと歩き出す。

(やはり、ここは危険だ)

 自分以外の男は言わずもがな、相手が女であっても決して油断できない。
 それでも二十年以上想い続け、ようやく再会できた彼女のことを手放してなるものか、と改めて決意しながら歩みを進めた。

    ◇◇

 五年前に出逢った小さな男の子と再会したら、私よりも年上且つ大人の男性になっていた。
 それまで平和な現代で暮らしてきた自分にとってありえない状況だったけれど、現に彼はあちらで過ごした日々を今でも覚えており、この世界に未だ不慣れな私の世話をなにかと焼いてくれる。
 とはいえ幼児ではないのだし、特別足が疲れているわけでもないので自分の足で歩けると言っても聞いてもらえた試しがなく。つまりは本日も私を抱きかかえた状態のまま、彼は自室に向かって歩いていた。こうしている間も顔に当たる彼の胸板の厚さに、本当によく成長したものだとしみじみ思わされる。

「ドリィ。逞しくなったね」
「……、……いきなりどうした」
「いや、こうやってくっついた状態でいるとやっぱりドリィの筋肉がすごいなあ、と思って。たくさん鍛えてきたんだね。恐竜さんに変身した時の姿も含めて、ドリィはかっこいいよ」
「っ、」
「ふふっ。そんな可愛い顔も見せたら、遊郭のお姉さんたちもイチコロになるんじゃない?」

 このワノ国で過ごすにあたり、着物と簪まで用意してもらえたことを有難く思うのと同じくらい、私の存在がいつの間にかドリィにとっての負担になってしまわないかが気がかりだった。
 戦闘能力のない、あくまでも一般人な自分がいることで彼に迷惑をかけたくはない。だからブラックマリアさんに語っていたことは紛れもなく私の本心だ。
 果たしていつまでこの世界にいられるのかは全く予想もつかないけれど、現在は諸事情でこの百獣海賊団に属しているドリィが元気で過ごせたらいいなと願っている。
 これもまた、本当のこと。

「……他の女に褒められたところで、おれはなんとも思わないが」
「え、」
に言われるとたまらないな。そうか。今のおれは、きみにとって好ましいのか」

 嬉しそうに細められた青い瞳は彼が子どもだった頃と同じなのに、あの頃よりもずっと低くなった彼の声の甘さにびっくりしてしまう。
 どうした? と再びこちらに声をかけてきたドリィになんでもないと返すのが精一杯で、私は急激に熱くなってきた自分の顔が少しでも早く冷めてくれることを祈った。
 その時、慌てる私をじっと見下ろしていたドリィもまた。思わず舌なめずりしてごくりと唾液を飲みこんでいたことを知らずにすんだのは、お互いに幸いだったのかもしれない。

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