9月11日

 修学旅行前日の日曜日。当初家でゆっくり過ごす予定だった私は、初めてはばたき市の遊園地に訪れていた。もちろん一人で来たわけではなく、かといって家族と来たわけでもない。

「あっ、さん! おはよう!」
「おはよう、小波さん。今日は誘ってくれてありがとう」
「ううん、私の方こそ。さんとお話したかったから、来てもらえて嬉しいな」

 遊園地の入口で手持ち無沙汰にしていた彼女――小波さんが、明るい表情を浮かべてこちらに駆け寄る。今までは彼女のことを教室の片隅から見かける程度だったけれど、こうして間近で見ると快活で可愛らしい人だな、と思い勝手ながら心が和んだ。
 そのまま女子二人でどのアトラクションから行くか、なんてパンフレット片手に喋っていれば、また別の足音が私たちの方へ近付いてきたのでそちらを見つめる。

「悪い、待たせた! あー、とは初めまして、になるかな? 風真玲太だ」
「うん。風真くん、初めまして。同学年のです。今日はよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ。イノリ、今日はとも遊園地に来れてよかったな?」
「……はい。二人とも、待たせてごめん」

 風真くんに軽く肩を叩かれた一紀くんが、やや戸惑った表情を浮かべて私を見つめる。男子二人と女子二人。所謂ダブルデートのような形で私たち四人が今日ここに集まったのは、そもそも先週行われたサーフィンのエキシビションで私と小波さんが顔を合わせたことが発端だった。

    ◆

『もしかして、あなたがさん?』

 きっかけは、一紀くんに誘われて羽ヶ崎の海に訪れ、無事エキシビションが終わった後で彼と少し話をしていた時だった。
 その日、私に話しかけてきた小波さんがはばたきウォッチャーの取材でやって来ていたことはすぐに分かったものの、今まで話したこともなかった彼女がなぜ私のことを知っていたのかが不思議だった。

『初めまして、小波美奈子です。最近、みちるちゃんとひかるちゃんからさんのことを聞いていてね、私もお友達になれたらいいなあと思っていたの』
『ん? みちると、ひかる……?』
『えっと、花椿の双子モデルって言ったらわかるかな? 本当はあの二人も、さんと仲良くなりたいって話していたんだけど、なかなか氷室くんが教えてくれなくて』
『! ちょっと。なんでそこで僕が出てくるわけ?』
『だって、ひかるちゃんが何度聞いても氷室くん、さんのことについてはずっとノーコメントで通しているし。同じ学年でピアノを弾いていることだけ分かっていても、どんな子なのか全く教えてくれなかったら逆に気になると思わない?』
『っ、……そ、それを本人の前でわざわざ言わなくても、』

 まさか花椿さんたちからも自分が認識されていたとは思わず、更に驚いた私を見ながら珍しく一紀くんがうろたえる。
 完全に私の想像だけど、放課後に音楽室へと向かう一紀くんのことを花椿さんたちがどこかで知った末、私に対しても興味を持った感じだったのかもしれない。

『ふふっ。でも、今日ここで実際にさんと会えたからよかったよ。ところでさん、来週の日曜日って空いてるかな?』
『え? う、うん。今のところは、特に何の予定もないよ』
『実は、はばチャの編集部さんから遊園地の招待チケットをもらってて、よかったら一緒に遊びに行かない? ちなみに四枚持っているから、今なら氷室くんの分もあるよ』

    ◆

 ――そんなこんなで、小波さんからのお誘いを受けて迎えた一週間後の当日。
 全員合流した後、風真くんが小波さんに話しかけていると私の隣には一紀くんが佇み、じっ、とまた頭のてっぺんから見下ろされてどきどきしてしまう。

「えっと、一紀くん……?」
「あ、……ごめん。今日の先輩、いつもと雰囲気が違うかな、って思ったから」

 遊園地に行くなら動きやすい服装の方がいいのかも、と考えた末に私が選んだ今日の服装は、以前浴衣を買いに行ったお店で売られていた黒のリバーシブルパーカーと紫のチェックワンピース。それに黒のタイツと、これからの季節にぴったりな茶色のショートブーツを履き、更にアクセサリーには銀杏が連なったデザインのイヤリングも身に着けていた。

「確かに、行き先が遊園地じゃなかったらもうちょっと落ち着いた服装を選んでいたかもね。無意識に浮かれていたのかな……もしかして、似合っていなかった?」
「えっ。いや、そうじゃなくて! むしろ逆、っていうか」
「逆?」
「ん、……要するに、とても僕好みだってこと。年の差を感じさせないし、秋っぽい雰囲気があるところもまたいいな、と思って。新鮮だし、可愛いよ」
「! あ、ありがとう……」

 予想外に今日の服装を褒められた結果、今度は私がうろたえる。
 ……夏休み最後の日曜日、二人で海へ出かけた時の水着姿に続いてまた可愛い、と言われてしまった。
 しかも微笑まれながら言われるものだから、言われた側としては本当に心臓が保たない気分で。集合してから未だ十分も経っていないはずなのに、顔が火照って仕方ない。

「おーい、そこの二人? 俺たちを差し置いて早速のろけるなよなー」
「のろけてはいません。似合っているから、褒めていただけです」
「ったく、ああ言えばこう言う……美奈子、お前もそんなに目を輝かせなくていいからな?」
「ふふっ。だって、朝からとってもいいもの見ちゃったんだもん」

 若干呆れた様子の風真くんとにこにこ笑っている小波さん、そして何食わぬ顔で変わらず私の隣にいる一紀くんの三人に見つめられた私は小さく溜め息をつく。
 何はともあれ、本日は大変賑やかな一日になりそうな予感がした。




「……もう。そんなに氷室くんが嫌がるなら、私がさんと乗ってこようかな?」
「えっ、」

 最初は四人でジェットコースターのアトラクションを楽しみ、次にやって来たコーヒーカップについて一紀くんが難色を示していると、見かねた小波さんが私の手をそっと握ってきた。一紀くんとはまた違う、柔らかな彼女の手に包まれた驚きで振りほどけずにいれば、一人しっかりと頷いた小波さんに連れられて身体が自然とアトラクションの入口に向かう。

「決めた。二人はそこでお留守番をお願いね? それじゃさん、行こう!」
「え、あ、うん……?」
「ちょ、ちょっと! 小波先輩、」

 一紀くんの焦った声が聞こえてきても、既に彼女と乗り込んだ私はそちらへ戻れるはずもなく。ひとまず大人しく着席すると、向かいに座った彼女がごめんね、と私に呟く。

「てっきり、さんと一緒なら氷室くんも喜ぶだろうなと思っていたんだけど、あんなにコーヒーカップで悩まれるとは私も思っていなくて……その、さっきは強引だったよね?」
「……、ううん。びっくりはしたけれど、小波さんとも一緒に乗れて嬉しいよ」
「本当?」
「うん。小さい頃以来かなあ、こういう乗り物。なんだか、子どもに戻れた気分になるね」

 そんな会話をしている内にアトラクションが始まり、私の言葉を聞いてどうやらほっとしたらしい小波さんがくるくるとコーヒーカップを回す。外の景色も全く見えないことはなかったが、どんどん速度が上がっていくにつれて二人ともはしゃいだ声が上がった。

「わ、わ~っ、世界が回ってる……!」
「あははっ! でも、このぐらぐらする感覚、楽しいよね」
「ぐらぐら……ふふっ、そうだね。こんなの、滅多に味わえないかも」
「でしょう? ね、さんも回してみる?」
「うん。せっかくだし、やってみる」

「……」
「……イノリ。えーっと、元気出せよ?」
「小波先輩に出遅れるなんて、……ハア。ほんと、ナンセンス」

 取り残された二人が、そんな会話をしていたことも知らず。小波さんとコーヒーカップから戻ってくると、笑顔を浮かべていた風真くんとは反対に、複雑そうな顔をしていた一紀くんに出迎えられた。

「お帰り。二人とも、ずーっと笑ってたな?」
「うん! すごく楽しかった。玲太くんたち、お留守番してくれてありがとう」
「えへへ、年甲斐もなくはしゃいじゃった。ただいま戻りました、……一紀くん?」
「……、……次、行きましょう」
「あっ。歩くの早いよ、氷室くん!」

 溜め息をついて先に歩き出した一紀くんを咎め、すぐさま駆けだした小波さんが彼の隣に並ぶ。
 ……私が子どもみたいにはしゃいでいるところを見て、呆れさせてしまったのかな。

。イノリなら単に拗ねているだけだから、そんなに気にしなくていいと思うぞ」
「……え?」
「自分が葛藤していた時に、が美奈子にかっ攫われて拗ねているんだ。ま、次に行くのは観覧車だし、と二人ならイノリの機嫌も戻るんじゃないか? 俺の勘だけどさ」

 俯いた私の隣を歩いていた風真くんの、優しさが滲んだ声を聞いて落ち込みかけた心が穏やかになる。風真くんとは今日初めて会話したけれど、先輩として一紀くんを気にかけてくれている彼がここにいてくれてよかったなと思った。

「風真くん、一紀くんのこと気にかけてくれてありがとう。それなら、次の観覧車は一紀くんと二人で乗ってみるね」
「ああ。是非ともそうしてやってくれ」

 俺も美奈子と乗りたいし、と呟いた風真くんの言葉から小波さんへの想いも伝わってきて微笑ましくなる。
 少し先を歩いている一紀くんと小波さんの背中を見つめながら、私たちもまた彼らの後に続き観覧車へと向かった。

    ◇◇

(今日のことで痛感した。僕って、まだまだ子どもっぽい……)

 先にアトラクションの列に並んでいたリョータ先輩と小波先輩を見送り、その後で先輩と二人で観覧車に乗った僕は深く溜め息をつく。
 いつか彼女が小波先輩とも知り合う日も来るかもしれないと思っていたけれど、まさか先週向こうから話しかけられて、こうしてリョータ先輩も交えて四人で遊園地に来ることになるとは全く予想しておらず。結果として、かっこ悪いところを見せてしまった。

「一紀くん」
「なに?」
「一紀くんは、……本当は今日、遊園地に来たくなかった?」

 観覧車がゆっくりと地上から離れはじめると、向かいあわせに座っていた彼女から不安そうな声で尋ねられて一瞬息が詰まる。

「私、はばたき市に引っ越してきて今日初めてこの遊園地に来たの。小波さんに誘ってもらえたこと、びっくりしたけれど嬉しかった。一紀くんも一緒だったから、なおさら」
「っ、」
「でも、私が断らなかったから一紀くんも巻き込まれたとしたら申し訳なくて……観覧車、もし退屈だったら寝ていてもいいよ? 私、外の景色見ておくから」

(ああ、……何やってるんだろ、僕)

 そう言って、寂しそうに笑った先輩が窓の外を見つめる姿にじくじくと胸が痛む。
 ちゃんと、僕が何を思っているのか彼女へ伝えなければ。このままの雰囲気で地上に戻ることになるのだけは絶対に嫌だ、と心底思った。

「ねえ、先輩。そっち行っても、いい?」
「えっ、……ああ、うん。どうぞ」

 いきなり立ち上がったら間違いなく驚かせるだろうなと思い、返答を貰ってから立ち上がった僕は先輩の隣に腰掛ける。当たり前のことだけど、お互いの身体が簡単にくっつきそうなほど近くなった距離に内心どきどきしながら、それでも僕は口を開いた。

「言い訳、になるんだけどさ」
「うん」
「決して、ここに来たくなかったわけじゃないんだ。そうじゃなくて。僕としては、二人で行きたかったのに小波先輩が誘ってきたことで二人きりじゃなくなった、ってことと。あとは、……さっきのコーヒーカップで迷っていた内に、小波先輩に君を連れていかれたのがすごく、情けないな、と思って」
「うん、」
「気を遣わせてごめん。でも、もし君がいなくて、リョータ先輩と小波先輩を含めた三人だけだったとしたら。僕は今日、ここにいなかったよ。先輩がいるから僕も来たんだ。それは、そのことはどうか、誤解しないでいてほしい」
「……うん、分かった。教えてくれてありがとう」

 慎重に言葉を選んで言いたかったことを伝えると、先ほどとは打って変わり柔らかく微笑んでくれた彼女の様子にほっとする。今まではそんなに好きじゃなかったはずなのに、誰の目も気にせず話せる環境という点で観覧車に乗るのもありかも、とも考えてしまった。

「ところで。一紀くんは遊園地のアトラクション、他にどんなものが好き?」
「ジェットコースター以外だったら……興味があるのは、バンジージャンプ、とか」
「バンジージャンプか~。うん、今日の服装だったら飛ぶどころじゃなくなりそうだから、挑戦するならスカートは避けた方が無難そうだね。ついでに心の準備もしておかないと」
「へえ。君も付き合ってくれるの?」
「全く怖くないわけじゃないけど、一回くらい体験しておくのもありかな、と思って」

 服装の問題だけでなく、今日は二人きりではないので仮に挑戦するとしてもまた次の機会になりそうだ、などと思っていると。

「わっ、」
「!」

 観覧車自体が揺れたことで、咄嗟に彼女の身体を支える。たったの何秒間かだけだったけれど、その数秒がむしろ長く感じるほどに珍しく強い揺れだった。

「……結構揺れたね? 外、風が強いのかな」
「たぶん、ね」
「はあ、びっくりした……一紀くん、支えてくれてありがとう」

 名残惜しくも、支えていた彼女の身体からいったん自分の手を離す。
 その際、彼女の耳元を飾っていたアクセサリーの輝きに今更ながら目を奪われた。

「こうして間近で見ると、綺麗だね。銀杏」
「え、……ああ、このイヤリングの話?」
「うん。それを着けている今日の君も、綺麗だ」
「!」
「……ふふっ。先輩、照れてるね?」
「だ、だって……こんな至近距離で、言われるとは思わないし」
「君のその表情もいいよね。どうしたらいいんだろう、って僕に困らされている顔。可愛い」
「~っ、もう、お願いだからあんまり見ないで……」

 両手で顔を覆って俯く、という初心な反応を前に、たとえ鏡を見なくても自分の口元が緩んでいくのがよく分かる。

「言っておくけど。僕も、他の人にはこんなこと言ったりしないから」

 ――君だけだよ。君だからこそ、僕の心はここまでかき乱されているんだ。

 それも、いつの日か分かってもらえたらいいなと思いながら、僕は地上に着くまでにまた赤くなった彼女を見つめた。

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