8月28日

 青い空、白い雲。そして太陽によって煌めく波飛沫が眩しい、夏の海辺にて。
 見知らぬ男の人からサングラス越しに熱い視線を向けられている私は、どうしたものかと一人頭を悩ませていた。

「まさか、現実の海で人魚姫と会えるなんて……! 情報の海から遊びに来たのかい? ここは暑いし、オレとネットサーフィンで涼みに行こう。仮想の海も、慣れたらきっと楽しいよ」

(……うーん。人魚姫、っていうのはもしかしなくともこの水着の影響、なのかな?)

 胸元は貝を模したデザインのホルターネックによって覆われ、太股も隠せる程度の丈があるワンピース型の水着は、徐々に水色から白へ変化していくグラデーションの色合いも気に入りこの夏購入したばかりだった。
 ちょっとセクシーかな? と思ったものの当初はクラスの女の子たちと遊びに行く時のために着ていくつもりでしかなかったので、水着くらい多少羽目を外しても問題ないかという判断で購入した結果。母の発言により、一緒に海へ訪れることになった一紀くんから感想を貰うよりも早く現れたこの人からすると、現在の私はそういう風に見えているらしい。

「ええと、すみませんが人と待ち合わせをしていたところなので……私のことは、気にしないでもらって大丈夫です」
「でも、キミのツレ、読み込みに時間がかかっているのなら尚更放っておけない。大体、こんな可憐な人魚姫を置き去りにするなんてオレには出来そうもない……!」

 一体どこまで本気なのか、再びネットの海へ帰ろうと言って迫ってきたこの人に私も一歩後ずさる。周囲にはわざわざ間に入って助けてくれそうな人もおらず、いよいよ困惑していると、後ろから誰かに肩を触られたため自然とそちらへ振り向いた。

先輩。遅くなってごめん」
「あっ、一紀くん……」
「待たせていた間、日陰じゃなかったから暑かったよね。水分とか平気? 喉渇いているなら、海に入る前にいったん飲み物でも買いに行こうか」
「な、なんだよ、おまえ……オレが先に、人魚姫へ声をかけていたのに!」
「……は? なに、その呼び方。そっちの都合のいいように彼女のこと、見ないでくれる」

 ――これ以上僕らに付き纏うつもりでいるなら通報も考えるけど。そっちだって、大事にはされたくないんじゃないの。

 私の前では滅多に見せない、冷たい目つきでサングラスの彼を睨んだ一紀くんに驚いているとそっと手を握られる。てのひら越しに伝わる一紀くんの温もりに、見知らぬ人から声をかけられた不安がほどけていくように思えた私は、そこでようやく安堵の息をついた。

「うっ、……おかしい。真夏のはずなのに、ブリザードが吹き荒れてる……? さようなら人魚姫。名残惜しいけど、今日は帰る!」

 結局、一紀くんの言葉にたじろいだサングラスの人は名残惜しいと言いつつも一目散に逃げていき。後に残されたのは、未だに手を繋いだままでいる私たち二人だけとなり、一紀くんも溜め息をつく。

「なんというか最後まで不思議な人だったね。一紀くん、ありがとう」
「いや、元々は僕が君を待たせてしまったせいだし……それにしても、」
「?」
「その水着、よく似合ってる。可愛い。先輩のお母さんに、うんと感謝しないと」
「……、……えっ、」
「あははっ。先輩、顔真っ赤。さて、気を取り直して……今日は一緒に楽しもう?」

 ――海でも、海の家でも。君が行きたいところにお伴するから、安心して。

 夏の陽射しを浴びて、にっこりとこちらに微笑んだ一紀くんの翠の瞳の輝きが増す。

(ああ、……参ったなあ。こんなに近いと、ほんとに、自惚れてしまいそう)

 繋いでいる手と、可愛いと言ってくれた声。それから、彼が私に向ける眼差しに甘さを感じてしまったら。きっと、『仲が良い先輩の一人』という今の関係性に耐えられなくなる。
 そんな予感がしたから、目を伏せてじりじりと足の裏を焦がし続ける砂浜の熱さに意識を集中させるので精一杯で。
 赤くなった顔が元に戻るまで、いつもより更に時間がかかっていた様子を一紀くんに観察されていたことにさえ、私はとうとう気付かないままだった。

    ◇◇

 潮風を受けて、彼女が着ている水着の裾がひらひらと棚引く。
 僕よりも先に先輩に声をかけ、最後には逃げていった人からすればおそらくその色合いとデザインが人魚を連想させたのだろうけれど――彼女が人魚姫だなんて、冗談じゃない。泡のように僕の前から消えてしまったらどうしてくれる、と一瞬理不尽な怒りが浮かびそうになったのを抑えながら、再び彼女と手を繋いだ状態で歩いていた。
 着替えから戻ってきた時は不覚にも出遅れてしまったが、僕が見ている前で他の男に声をかけられる機会など与えさせてたまるか、という思いが芽生えたゆえの行動でもある。

「一紀くん。えっと、その、そろそろ手の方は……」
「ダメ。今の君、ただでさえその水着で男どもに注目されているんだから。転倒防止もあるけど、隙を見せたらまた誰かに声をかけられるよ」
「そう、かな……? 私の手、ちょっと汗ばんできた気もしたから。嫌だったらごめんね?」

 彼女が着ている水着はビキニと異なり、お腹や太股を見せないデザインのものだった。しかし、本人の雰囲気と相まってより清楚に見えるせいか、直接声をかけてはこずともちらほらと見てくる男どもの視線が先ほどから鬱陶しい。
 そんな外野にもわざと見せつけるように、何も言わず指を絡ませて恋人繋ぎに変更すれば、彼女の顔がいっそう赤く染まっていく。本当に、先輩のお母さんには感謝しなければ。おかげでこんなにも可愛い人と、今日は誰より近くで過ごすことができるのだ。

(彼女が卒業するまで、あと一年半。今のところは特にそういう話を聞いたことがないけれど……この先、僕以外にも先輩に惹かれる奴が全く出てこないとも限らない)

 仮に今このタイミングで告白したとしても、喜ばれるよりかはおそらく戸惑わせる可能性の方が高いんだろうなと感じていた。
 だったら、僕が取るべき手段はただ一つ。もっともっと、先輩に僕を意識してもらえばいい。

(僕にとっての君が特別なように、君にとっても、僕を特別にしてほしいんだ)

 目安は大雑把ながらとりあえず年内まで。その頃には、想いを伝えても問題がないように必ず君を振り向かせてみせる。

(……好きだよ、先輩)

 未だ言えない言葉を心の中で呟いて、恥じらいながらも夏の海にはしゃぐ彼女と楽しい時間を過ごす。
 恋を自覚した夏の終わり、次の季節はもうすぐそこまで迫っていた。

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