8月21日
一紀くんに誘ってもらった、はばたき市の花火大会へ二人で出かけた翌日。
私は家族ともども母の実家がある北海道へ向かうと、これまでの勉強の復習と相変わらずピアノを弾きつつ、のびのびと夏休みの日々を過ごさせてもらった。勿論お盆の準備も手伝い、何事もなく迎えられた後は一紀くんに渡すおみやげもじっくり選んで帰路に就いた。平和なのは実にいいことだと思う。
そんな機会は無いかもしれないけれど、念のため自分の部屋も綺麗に掃除しておいてからリビングで待機すること早十分。鳴らされたインターホンに反応して立ち上がると、にこにこ見守り続けていた母にうふふ、と笑い声を上げられたが、構わず玄関の扉を開ける。
「一紀くん、いらっしゃい。今日も暑かったでしょう、中へどうぞ」
「先輩、久し振り。元気そうでよかった。えっと、……お邪魔、します」
あの花火大会の日以来、二週間振りに会うこととなった一紀くんは私と目を合わせると、律儀に一礼してから我が家の玄関に足を踏み入れた。そうして靴を脱いだ彼を伴い、リビングまで戻ってくるとやっぱりにこにこしていた母が目を輝かせて一紀くんの前に立つ。
「初めまして、氷室一紀です。先輩には、学校でいつもお世話になっています」
「ふふっ、初めまして。の母です。こちらこそ、うちの娘と仲良くしてくれてありがとうね。正直、私が想像していたよりも氷室くんがず~っとかっこよくてびっくりしちゃった! ねえねえ、との馴れ初めってどんな感じだったの?」
「えっ、」
「もう、お母さんったら。家に来てもらったばかりなのに、いきなり質問責めにされたら一紀くんも困っちゃうよ。一紀くん、お茶とおみやげを用意するから、ソファに座って待っていてくれる?」
「う、うん……それじゃ、お言葉に甘えて」
「あら、早速娘から怒られちゃったわ。でもの言い分も一理あるし、私も大人しく待たせてもらいましょうかね」
いったん台所に向かった私は、冷蔵庫から常備している水出し緑茶を取り出すと三人分のグラスに注ぐ。それからチョコレートを挟んだいくつかのガレットと、冷凍庫で冷やしておいたメロンシャーベットを盛りつけたそれぞれのお皿もお盆に載せてリビングまで戻ってくると、案の定母に微笑まれている一紀くんが困惑の表情を浮かべていた。
「お茶はこの季節に我が家で飲んでいるものだから違うけど、このガレットとシャーベットは昔から私も気に入っているおみやげだから、是非食べてもらえたら嬉しいな。あとは、一紀くんのご家族とも分けてもらえたらいいかなと思って、この紙袋に常温でも問題ないポテチとおかきの詰め合わせと、個人的に好きなラベンダーのサシェも入ってます」
お盆から各自のグラスとお皿を下ろし、元々私が座っていたソファの付近に用意しておいた紙袋を一紀くんへ手渡しながら説明すると、驚きからか彼は目を見開いていた。
……まあ、確かに私も一人に対するおみやげにしては量が多いかなと思ったんだけど。
あの花火大会の帰り道、しばらく北海道へ行くと告げた時の彼がとても寂しそうな顔をしていたものだから、少しでも喜んでもらえたらいいなと考えたらこうなっていたのだ。
「こんなにたくさん……本当に、僕がもらっていいの?」
「うん。先月の写真展と、今月は花火大会にも一緒に行くことができて楽しかったし。そのお礼も兼ねたおみやげだから、むしろ遠慮せず受け取ってくれるとありがたいな」
「クラスの子たちへのおみやげは共通の一種類なのに、氷室くんにはよっぽど喜んでほしかったのね。氷室くん、うちの娘に愛されてるわね~」
「お母さん。そういうのは今いいから」
「え~? ったらつれないわあ」
「……、ありがとうございます。先輩のご厚意に甘えて、全ていただきます」
最初は恐縮されてしまったものの、私と母のやりとりを聞いている内に笑顔を浮かべていた一紀くんが丁寧に紙袋を置いた後、早速摘まんだガレットを口に運ぶ。嫌がられはしなかった様子に内心ほっとした私も、シャーベットのお皿を手に取ると冷たい夏のデザートに舌鼓を打った。幼い頃からこの味に慣れ親しんできた分、より美味しく感じる気がする。
「ところで、夏休みもあと十日ほどで終わっちゃうわけだけど。、あなた北海道にいた時に買ってきたあの可愛い水着、氷室くんには見せてあげなくてよかったの?」
「ぐっ、……?!」
落ち着いてきたところで北海道での日々についても話そうかな、と思っていた矢先、敢えて伝える予定のなかった水着のことを母に触れられた結果一紀くんが咽せてしまった。
慌ててグラスを差し出し、緑茶を飲んだ彼の背中を擦っていると先の発言主である母はそんな私たちの様子も含めて実に楽しそうに見守っている。
……本当に、今このタイミングでわざわざ彼に教える必要があったんだろうか。母の発言が甚だ疑問でしかない。
「いや、私が水着を買ったのはそもそも、秋になってから温水プールにでも行こうかって話が出てきたからだし」
「えっ……一体誰と、」
「ん? クラスの女の子たちと。今月までは部活で忙しいみたいで、とりあえず秋に遊ぶとしても各自で水着を用意しておこう、ってなったんだ」
来月以降、いざ皆で遊びに行くとなった段階で手元に水着がないという状況はなるべく避けたかったのもあり。私の場合ははばたき市へ戻ってくる前に水着を買っておいた、というわけである。
「から前に聞いたんだけど、氷室くんってサーフィンをやっているんでしょう? 普通の人と比べて、当然海には慣れているでしょうし。私としては、海に慣れている氷室くんがついていてくれたら、もし娘が海水浴に行く場合も安心して任せられるのかな~と思ったのよ」
「……!」
「えーっと。なんでお母さんの中で、私が一紀くんと海に行くのがほぼ決定事項になっているのかよく分からないんだけど……行くとしたって来週の日曜日しかなさそうだし、その日一紀くんに用事があったら流石に無理なんじゃない?」
「と、うちの娘は言っているけど。氷室くんの都合はどうかしら?」
「空いてます。用事もありませんし、来週の日曜日だったら僕も海、行けますよ」
「いやいや、……ええ? 一紀くん、私の水着姿に興味があるってこと?」
そんなまさか、という思いを込めて彼を見つめると、私と視線が合った彼はほんのり耳を赤く染めて何事か呟いた。しかし、小声だったこともあって私には上手く聞こえず、ばっちり聞こえたらしい母はにんまりと笑みを深くする。
「うふふ。とっても甘酸っぱい青春ですこと」
「うーん、一紀くんが負担にならないのなら、私も海に行くのは構わないけれど……」
なんとなく、母の誘導によって海に行くことが決められてしまったように思えてならず、首を傾げた私はひとまず再びシャーベットを食べる。
結局、この後も娘を差し置いて始終にこにこしていた母が積極的に一紀くんへ話を振りつつ、私たちは暫し和やか(?)に会話に興じるのだった。
◆
「……時々。こんな自分ががっかりされてしまわないか、ちょっぴり不安になるんだ。ここだけの話、だけどね」
◇◇
初めて先輩の家に上がり、彼女のお母さんも交えて三人で色々と話をした後。彼女を家まで送っていくという条件で、僕は先輩を連れてホタルの住処に訪れていた。
夏休みが終わるまであと十日。来週の日曜日、図らずも二人で海へ行くことになった日の帰り道に寄るのは難しそうな気がしたのと、もう少し彼女と過ごしたかった気持ちから一緒にホタルを見に行かないかと伝えれば、急な誘いにもかかわらず彼女は頷いてくれて。
そして、ホタルが飛び交う淡い光の中、いつの間にか浮かんでいた白い光に触れたら――泣きそうな顔をした彼女が、僕にそう呟いたんだ。
「がっかり……って、どういうこと?」
「私がいつも弾いているピアノの曲のこと。あれは、私がつくったわけじゃなくてちゃんと作者がいるけれど、多分私以外で知っている人はここにはいないだろうし。元々、誰かに聞いてほしいわけじゃなくて、昔の私も忘れたくなかったから弾きはじめたようなものなの」
「昔の、先輩を?」
「そう。元には戻れないって、自分自身が一番分かっていたのにね。寂しい気持ちを消せなくて……家族や友達もいて、今の私がとても恵まれているってこともちゃんと認識しているけれど。それでも、もし昔の私が続いていたらどうなっていたのかなあ、って考えちゃうんだ」
苦笑した彼女が言う、『昔の自分に戻れない』というのが具体的にはどういうことなのか。
本人でない僕には残念ながらさっぱり分からなかったが、それによって先輩が『寂しいと感じている』ことだけは伝わって、居ても立ってもいられず彼女の手を握る。幻想的で綺麗な景色なのに、なぜだか今にも彼女が消えてしまいそうに思えて怖くなった。
「一紀くん?」
「僕は、がっかりなんてしない。君が、君のためにピアノを弾くことは誰かに迷惑をかけるわけじゃないんだから、その心の思うままに何度だって弾いていいと思う。それに、寂しさなんてナンセンスなもの……いつか忘れるくらい、たくさん誘うから、」
この夏休みが終わっても、僕と出かけて笑ってほしい。喜んでほしいよ。
そんな思いを込めて指を絡ませれば、顔を赤く染めた彼女がやっと少し笑ってくれた。
「ありがとう、慰めてくれて。一紀くんのその気持ちが、私には何よりも嬉しい」
恋人だったらここで甘いキスの一つや二つを贈るんだろうけれど、今のところ仲の良い先輩と後輩という間柄でしかない僕にはそこまでする無謀さはなく。
その代わり、思いきって彼女の肩を抱くと、そのまま僕の肩へ凭れかかってもらった。当然、彼女の手も握ったままで離さない。
「えっ、」
「……僕は、悔しいことに君より一つ年下だけど。これでも男だし、いつだって先輩の力にもなりたいって思ってる。それだけはどうか、君も忘れないで」
「う、ん……それも嬉しい、けど」
――どうして、一紀くんは私にそこまでしてくれるの?
僕に凭れたまま、ぽつりと呟かれた疑問に対する答えも、僕には分かりきっていて。
「なんでだと思う?」
「ええっ、……お、教えてくれないの?」
「うん。今はまだ、内緒」
(だって、こう答えたら君も僕のことを考えずにはいられなくなるだろう?)
林檎みたいに赤い顔のまま、今度は頭を悩ませはじめた可愛い彼女のことを見つめながら、僕はそっと微笑んだ。