8月7日
「あっ。あの屋台って、一紀くんの好きなサーターアンダーギーじゃない?」
辺り一面、どこもかしこも人だらけで賑わっている夜の縁日にて。
先月買ったばかりの涼やかな藍染の浴衣を身に纏い、簪を挿した先輩が僕の隣で楽しそうに微笑む。日頃落ち着いている印象が強い彼女の、珍しくはしゃいでいる姿を間近で見ることができて改めて誘ってよかった、と思いつつ僕も彼女と同じ方向を見てみる。
「ほんとだ。こうした縁日でも、売られているものなんだな」
「私が前住んでいたところのお祭りでも見かけなかったし、これは是非食べておきたいね。もちろん、一紀くんも買いに行くでしょ?」
「うん。ところで、先輩は他にも食べておきたいもの、ある?」
「んー、……興味はあるけど、買いすぎて花火どころじゃなくなったら本末転倒だし、今のところはサーターアンダーギーだけで大丈夫」
「それなら、二人分とついでに飲み物も買ったら移動しようか。なるべくは人の少ないところでゆっくり食べたいし」
「そうだね。私も一紀くんの案に賛成」
サーターアンダーギーは黒糖とプレーンの二種類が売られており、僕はプレーン、彼女は黒糖をそれぞれ選んで購入した後、人混みで混雑している大通りを抜けて端の方へと移動する。小型の容器には一口サイズのサーターアンダーギーが六個入っており、その内一個には食べやすくするためにカラフルなピックが刺さっていた。
「黒糖、優しい甘さで美味しい! 一紀くんの方はどう?」
「プレーンも、あっさりしていて美味しいよ。ちょっと食べてみる?」
「いいの? それじゃあ、お言葉に甘えて」
手に持っていた容器を差し出すと、自分のピックでプレーンのサーターアンダーギーを一個口にした先輩が相変わらずにこにこ微笑む。その反応からもしかしたら僕にも黒糖をおすすめしてくれるかな、と内心期待していると、彼女は予想外の行動を取ってきた。
「一紀くん。はい、あーん」
「……っ、」
「私なりの、一紀くんに対するお返し。なんて、」
調子に乗りすぎたかな、と呟いた先輩が差し出していた手を引っ込めようとしていることに気付き、彼女の手首を掴んだ僕はそのままサーターアンダーギーへ齧りつく。
まさか本当に食べられると思っていなかったのか、一瞬きょとんとした彼女の顔がみるみる内に赤く染まっていくところを見せられて思わず笑みが零れた。
(自分から提案しておいて照れちゃうなんて、可愛い人)
言ったら、もっと照れる姿も容易に想像できるから敢えて言わないでおくけれど。
「う、あ、」
「ん。確かに、先輩が言っていたとおり黒糖も美味しいね。僕も好きな味だ。ごちそうさま」
「そ、っか。それなら、よかった……のかな?」
「ふふっ、……もうすぐ、花火も始まるみたい。食べ終わったら、見やすそうなところまでまたちょっと歩こうか」
「……うん」
そうして花火が始まるやいなや、雑踏に紛れて僕はさりげなく先輩の手を取った。静かに繋いだ手はほどけず、それどころか再び握り返してもらえたことで僕の胸もまた余計に高鳴る。
夜空に咲く色とりどりの花火を揃って見上げた僕らの間に、しばらく会話はなかったが、てのひら越しに伝わってくる熱が嬉しくて少しでもこの時間が長く続けばいいと願った。
――いつだって、どんな物事にも終わりがあるのだと分かっているからこそ。
今年、彼女と過ごしたこの花火大会が終わっていくことが、僕にはひどく名残惜しかった。
◆
「今日の花火大会、一緒に行けてよかった。一紀くん、誘ってくれてありがとう」
数時間前の賑わっていた会場とは逆に、閑散としている夜の住宅街を二人で並んで歩いていると先輩からお礼を伝えられる。この花火大会帰りの浮かれた頭のまま、いっそ彼女の家に着いてしまうまでに次に遊びに行く予定も立ててしまおうかと考えていたが、残念なことに物事とはそう上手く運ばない場合もあるらしい。
「実はね。私、明日からしばらくお母さんの実家がある北海道に行くんだ。家族皆でお盆の準備もするから、はばたき市に帰ってくるのは早くても再来週の半ば以降になると思う」
「えっ、……そう、なんだ」
僕にだって氷室の、家の集まりが時々あるからむしろ想像しやすいはずだったのに。
彼女に打ち明けられたことで、またしばらくの間は会えなくなるのかと思った残念さがうっかり声にも滲んでしまった。後悔で俯いた一瞬、けれどそんな僕を掬いあげたのもまた、柔い先輩の指先から伝わる熱だった。
「それでね、北海道のおみやげも渡したいし……一紀くん。再来週の日曜日、よかったら、家に来ない?」
家。というのはつまり、今僕たちが向かっている彼女の家に相違なく。
初めて誘ってもらえた嬉しさで頭が真っ白になっていると、何も言えずにいた僕に今度は先輩が慌て出す。
「あの、ええと、もちろん二人きり、とかではなくてお母さんも当日いるとは思う。けど、一紀くんの都合が悪かったら、その時は学校でも渡せるおみやげを選ぶようにもできるから! その、……いきなりこんなこと言われて戸惑った、よね?」
「……驚いたことは事実だけど、嫌じゃないよ。再来週の日曜日、用事もないから大丈夫。うん。絶対、行く」
「ほんとに? 一紀くん、私が年上だからって、気を遣ってない?」
「僕の性格上、無理だったらまず先に伝えてる。こう見えても、誘ってもらえてかなり喜んでいるんだよ、今の僕。どんなおみやげを選んでくれるのか、楽しみに待っておくから」
だから、絶対帰ってきて――とまで伝えるのは流石に重すぎるだろうなという自覚があったので、代わりに心の中で呟く。色々な意味で、今日は思い出深い一日となりそうだ。
「……しばらく、サーターアンダーギーを見る度君のことも思い出すんだろうな」
「……え?」
「黒糖だったら余計に。ねえ、あんな可愛いこと、僕以外にはもうしちゃダメだよ。先輩が思っている以上に、男ってずっと単純なんだから。ちゃんと肝に銘じておくこと」
「……、……うん。する機会、滅多にないとは思うけど気をつけます」
是非そうして、と返事をした僕はどうしようもなく自分の顔が緩んでいくのが分かったが、幸い、最後まで照れていた先輩には気付かれず。次に会える日を、既に心待ちにしながら彼女を家まで送っていった。
ちなみにしばらく経ってから、彼女の家族とも初めて会うことになると知って今度は緊張に苛まれる日々も送ることになるのだけれど。それはまた、別のお話。