7月17日
(……そういえば。今世で男の子と出かけるのって、今日が初めてかも)
レトロなデザインに惹かれて購入していたワンピースに着替えてから、荷物の再確認と高校生がしていても違和感がない程度の薄化粧も終えたところで、私はようやくその事実に気付いた。
一緒に行けることが嬉しくてよく考えていなかったのだけれど、果たして氷室くん自身は本当に嫌ではなかったのだろうか。そして、私が写真展の話をしていなければ本来彼は今日もサーフィンに行きたかったのではないか――ふとそんなことを考えてしまい、さっきまでうきうきしていたはずの気分がゆっくりと下がっていく。
今のところ彼から行けなくなったという連絡はまだ来ていない。ただし、もしかしたら途中で帰りたいと言われる可能性も一応頭の片隅に置いておくべきなのかもしれない。
「あら。お友達とのおでかけでいつになく張りきっていたのに、そんな浮かない顔してどうしたの?」
「ん、……なんとなく、不安になってきちゃった。無理をさせていなかったかなあ、って」
「……もしかして、お友達って男の子?」
「そうだよ。待ち合わせしようとしたら、家まで迎えに来てもらうことになったから少なくとも嫌がられていない、とは思いたいんだけど……今日の私、おかしくないかな?」
ほんのりと足元が透ける、レース素材のローヒールパンプスも夏らしく涼やかなデザインを気に入って早速履いていくつもりでいたのに、今更これで問題ないのかそわそわしてくる。そんな感じで急に落ち着かなくなった私を見て、母は何を思ったのか。満面の笑みを浮かべた直後、軽く私の頭を撫でた。
「わっ、……お母さん?」
「うふふ。初デートだからか、余計緊張しちゃっているのかしら? 初々しいわね~。私は高校生らしくて可愛いと思うわよ。ところで、もし何とも思っていない子だったらそもそも迎えに来ないんじゃない?」
「……えっ、」
「相手の子がをどんな風に思っているのかは分からないけれど、普通のお友達より大事に思われているのは確かね。まあ、そこはさておきせっかく男の子と出かけるのなら、笑顔で! なおかつ、感謝を伝えることも忘れずにね?」
母なりに私を励ましてくれているんだろうな、ということが伝わって少しだけほっとしていると、間もなく着信音が鳴り響き慌てて自分のスマホを掴む。スマホの画面には氷室くんの名前が表示されており、私は迷わず彼からの電話を取った。
「もしもし、です」
『氷室です。今、ちょうどエントランス前に着いたところ』
「連絡ありがとう。じゃあ、これからそっちに向かいます」
『うん、待ってる』
短いやりとりを交わした後、呆気なく途切れた電話に思わず溜め息をつけば目の前の母から笑い声が洩れる。ついでに大層微笑ましいものを見つめる視線に耐えられなくなった私は、急いでパンプスを履くなり行ってきます、とだけ伝えて玄関を飛び出した。
現在、私たち家族は父の異動に伴い社宅であるマンションの一室に暮らしている。廊下を通り抜けた先にあるエレベーターへ乗りこみ、一階のエントランスまで降りてくると外に視線を向けていた氷室くんがこちらへ振り返った。
「氷室くん。おはよう」
「おはよう、先輩」
挨拶をしながら駆け寄れば、頭のてっぺんから爪先まで見下ろされて心臓が跳ねる。母や自分の見立てでは特におかしくない恰好だと思っていたが、もしや彼の視点ではどこか気になるところがあったのだろうか。
なんと声をかけたらよいのか分からず立ち尽くしていると、やがて氷室くんがにっこり微笑む。それは学校でも滅多に見かけない、彼の心からの笑顔だった。
「エクセレント。その服装、君の雰囲気とよく合ってる。自然体でいい感じ」
「そ、そう? それなら、よかった……」
まだ出かけてすらいない段階なのに、なぜ私はこんなにもどきどきしているのだろう。何とも思っていない子だったらそもそも迎えに来ないのでは、という、先ほど母に言われた言葉が頭に浮かぶ。
……いや、まさか。単に後輩の彼が先輩の私に気を遣ってくれたからだ、と無理にでも結論付ける。これ以上深く考えてしまったら、いっそ墓穴を掘ってしまいそうな気がした。
「迎えに来てくれてありがとう。その、今日はよろしくお願いします」
「……もしかして、緊張してるの? なんか堅いけど……ま、こちらこそよろしく」
今の私には笑顔を浮かべるほどの余裕がなかったものの、ひとまず迎えに来てくれたことの感謝はどうにか伝えられた後。私と彼は早速、目的地に向けて出発した。
◆
市外の美術館は、はばたき駅から電車に乗ってもおよそ一時間以上かかる場所にある。夏休み前日の日曜日ということで混雑していないかが気になったが、幸い電車内は空いていて二人とも座ることができた。
「今日行く写真展、一階と二階のフロアに分かれて展示されているみたいだし、枚数的にも見応えがありそうだね」
「うん。世界中の写真家が撮った風景写真が集まるから、特に気に入った作品があればおみやげにポストカードも買えたらいいなあ、って思ってる。ちなみに氷室くんはこの美術館、今まで来たことある?」
「小学生だった頃に何回か、親に連れてきてもらった記憶はあるよ。けど、中学に上がってからは特に気になる展示もなかったし、僕もここに来るのはかなり久しぶりだと思う」
移動時間の間、お互いに手持ち無沙汰になるかと思われたが決してそんなこともなく、私と氷室くんは時々会話も挟みながらのんびり通り過ぎてゆく景色を眺めて過ごした。
燦々とした陽射しに照らされた植物の緑は色濃く、真っ青な空に浮かんでいる入道雲も今日はことさら大きく見える。途中の駅に停車する度、電車の外からは蝉たちの合唱も聞こえてきて、今更ながら今年も夏がめぐってきたのだと実感する。
「……なんだか、不思議な感じ」
「ん?」
「去年の今頃はね、まさか自分が転校することになるなんて夢にも思わなかったから。一年後、氷室くんと出かけているって知ったら去年の私はとても驚いただろうなあ、って」
「……その言い方だと、前の学校じゃそういう相手がいなかったように聞こえるんだけど」
「うん。私、前の学校の友達は女の子だけだったし。男の子と一緒に遊びに行くのは今日、氷室くんが初めてだよ。だから迎えに来てもらった時は、緊張していたけど……それ以上に楽しみにもしていたの」
「……っ、」
「あ、そのハンカチ使ってもらえているんだね。嬉しいな」
額に浮かんだ汗を拭おうとして、氷室くんが懐から取り出したハンカチは数日前、彼の誕生日に私がプレゼントしていたものだった。水色と黒の二色セットで売られているのを見かけた時、直感で彼に似合いそうだと思って購入しておいたそれが実際に使ってもらえていると知った途端、心が嬉しさで満ちていく。
「……、じゃなくて、先輩も……、……」
「……ん? 氷室くん、どうかした?」
「! あっ、いや、何でもない……次、降りる駅みたい」
(もしも一人のままだったら、無言で景色を眺めていたか、本でも読みながら単に移動していただけだったんだろうな)
そういう過ごし方も嫌いじゃないけれど、たまに年下であることを忘れてしまいそうなくらい落ち着いた氷室くんと交わす会話が存外楽しくて。私は笑顔を浮かべながら、彼と一緒に乗ってきた電車を降りた。
◆
「は~、……月と星、どっちも綺麗だったね」
「うん。てっきり、夜の風景写真ばかりかと思っていたけれど、昼間や夕方に撮られた月も場所によって風情があった。僕は特に、桜並木と月のシリーズがいいなと思ったよ」
到着した美術館は私の懸念どおり混雑していたが、建物自体が広かったこともあり、順路に沿って歩けばひととおり見ることができるようになっていた。
併設のミュージアムショップでおみやげも購入した頃にはお腹も空いていたため、最寄り駅近くのカフェに移動した私たちはお昼ご飯を食べつつ、今回の写真展に対する感想を伝えあう。
「あ、私もそのシリーズ好き。夜桜も含めて桜と月って、やっぱり相性がいいんだろうね。あとは天の川と、月虹の写真も素敵だったなあ」
「確かに、天の川は他の展示と比べて写真のサイズが大きかったから、なかなか迫力があったよね。僕もあのエリアで足止めをくらっていたし、気持ちはよく分かる」
「んー、……元々自分用に買うつもりだったけど、友達に送る暑中見舞いを兼ねて多めにポストカードも買っちゃった。氷室くんは?」
「僕も自分用と、弟へのみやげとして数枚追加で買ってきた。今日の写真展、君と見ることができてよかった」
「そっか。そう言ってもらえると、私も嬉しいよ」
食後に頼んだレモネードを飲んで一息つく。どうなることかと思ったけれど、話を聞く限り氷室くんにも写真展を楽しんでもらえたようで、私は内心安堵していた。
明日から始まる夏休み、部活に入っていない私は特に登校する機会がない代わり、学校で氷室くんと顔を合わせることもなくなる。外出先が被るか、或いはどちらかのバイト先に訪れでもしない限り。私たちが次に会うとすれば早くて再来月以降となるだろう。
それを勝手ながら寂しいと感じるくらいには、私は彼と過ごす時間を楽しいと思っていたが、先輩である手前こちらから誘えば彼に無理をさせてしまう気もして。これ以上何もなければ、一緒に出かけるのも今日限りなのだろうなとぼんやり考える。
「ところで」
「うん?」
「来月、さ……はばたき市で花火大会があるの、知ってる?」
「ああ、うん。来月の、最初の日曜日だったっけ? 私も家族で見に行こうか、って数日前に話していたところ」
「……僕は?」
「え、」
「先輩。僕と、二人で行ってみるのは、嫌?」
突然の花火大会のお誘いに、一瞬頭が働かなくなる。
からん、とレモネードに溶けていく氷の音がやけに響く中、よく見ると氷室くんの耳が赤く染まっていた。
「……氷室くんこそ、いいの?」
「嫌だったら最初から言ってない。って、この会話、先週も君としただろ」
デジャヴ。なんて、拗ねたように目線を逸らして呟いた彼が私と同じく食後に頼んでいたレモネードに口をつける。その様子がいつもの氷室くんより幼く見えてちょっぴり笑ってしまうと、当然ながら彼には鋭い視線を向けられた。
「ちゃんと覚えているし、私は嫌じゃないよ。むしろ、氷室くんに誘ってもらえて嬉しい」
「……あ、そ。なら、決まりだね。一緒に行こう」
「うん。せっかくだし、浴衣も新調しようかな」
普段多忙な父が、なんとかその日は休みを取れるように仕事を更に頑張っていたことを思い出す。父には申し訳ないけれど、来月の花火大会は母と二人で楽しんでもらうとして、浴衣についてはどのお店に行こうか悩んでいれば若干和らいだ彼の目と視線が重なった。
「先輩。ちなみに、明日の予定は?」
「ん? 特に何もないよ」
「じゃ、僕が荷物持ちするから。明日、浴衣買いに行かない?」
「えっ……明日?」
「人気があるデザインだと、すぐ売り切れになることも珍しくないようだし。まあ、……君の都合が悪いようなら、そっちは別の日になっても構わないけど」
立て続けの、なおかつ急なお誘いであることは氷室くん自身よく分かっているのだろう。私に断られても仕方がないというように、俯いた彼の表情は自信なさげで、それでもやっぱり耳が赤いまま私の返事を待ってくれている。
(そんな顔、しなくてもいいのに)
こう思わされた時点で、私が彼に伝える返事は決まっていた。
◆
「……先輩、……先輩。そろそろ起きて」
「ん、……?」
「もうすぐ、はばたき駅に着くから」
優しく肩を揺らされた衝撃で、おぼろげだった意識が覚醒する。もうすぐ。駅。
その単語と、すぐ隣に感じる体温によって今の自分が帰りの電車の中、よりにもよって氷室くんにもたれかかった体勢でうたた寝していたことに気付いた。
「氷室くん、ごめんなさい。私ったらいつの間にか寝ちゃって……肩、痛かったでしょう?」
「全然。僕も男だし、君の頭の重さぐらい平気。とはいえ、もし駅に着くまで起きなかったらどうしようかとは思ったけどね?」
「うっ、ほんとにごめんね。でも、起こしてくれてありがとう」
「……、一紀」
「わっ、」
「そんなに気にするなら、僕のこと、名前で呼んでほしい。それに僕だって君のこと、名前で呼びたいんだけど」
平気と言われても迷惑をかけたことには変わらず、恐縮していると彼の名前が耳元で囁かれる。続いてお互いの呼び方に関する提案もされて顔を上げれば、こちらをじっと見つめている氷室くんの眼差しに、思わず鼓動が高鳴った。
(今時の高校生って、……仲がよくなったら、こんなに距離が近くなるのかしら)
前世の私にも、かつて高校生だった頃はあった。それでも、以前の人生で氷室くんのように休日も遊びに行くほどの仲がいい男の子はいなかったので比較のしようがなく、しばらく何も言えずにいると先に焦れた彼が口を開く。
「ねえ。返事は?」
「あっ、はい。どっちも問題はない、です」
一紀くん、と思いきって名前を呼べば、あくまでも友人として仲がいいと思っていた後輩の柔らかい表情を間近で直視してしまい顔が火照る。
――明日、私は一体どんな顔をして彼と会えばいいんだろう。
仲よくなれて嬉しいはずなのに、電車がはばたき駅に到着したアナウンスを聞きながら、私はほんの少しだけ途方に暮れてしまったのだった。