5月6日
(今日は流石に、海まで行けそうにないな……)
あと二日後に今年の母の日が迫ってきているためだろうか。夕方の時間帯にもかかわらず、僕のアルバイト先である花屋アンネリーには多くの人々が訪れていた。
花束だけに限らずアレンジメントを希望する人たちもかなりいて、今日は店長を含めて店の誰もが忙しなく動き回っている。僕もここでアルバイトを始めて早一ヶ月が経ったが、今回は接客よりも主に簡単な包装作業や会計を任されており、なかなか絶えない客足に溜め息が出そうになるのを我慢しながらどうにか仕事に励んでいた。
「いらっしゃいませ、……あ、」
「氷室くん。こんにちは」
店長や他の店員がちょうど別の対応に追われていたため、開いた店の扉に向かって声をかけると、入ってきたのは学校でしか会ったことのない先輩だった。
一度学校から家に帰った後らしく、シンプルな藍色のワンピースの上に白のカーディガンを羽織った彼女がどことなく大人びて見える。僕自身の好みでもある鮮やかな色づかいとは異なるが、本人の雰囲気によく馴染んでいるその私服姿は、思いの外僕の目を惹いた。
「学校の外でこんな風に会うの、初めてだね。母の日用に花束を用意してほしいんだけど、お願いできるかな?」
「もちろん。大体の予算とか、使いたい花はもう決まっているの?」
本当はゴールデンウィーク中、僕から先輩をどこかへ遊びに誘ってみようかと考えたり、或いは運良く先輩の方から連絡が来ないだろうかと待ってみたりもしていたが、結局お互いに連絡を取ることすらなくただ時間だけが過ぎていった。
……連絡先の交換はできたにもかかわらず、僕から始終声をかけられなかったことについては勇気がないから、と言われればそれまでの話だ。けれども知り合って間もない間柄である彼女から、軽薄な男だと思われたくもなかった。
そういった経緯があり、母の日のイベントを通してでも今日私服姿の彼女と会えたことに実は内心浮かれていて、普段に比べると僅かながらもやる気が湧いたような気がする。
「えっと、可能なら3リッチで、赤のカーネーションに白のカスミソウを合わせてほしいな。あと、包装紙やリボンはピンク系統の色でまとめてもらえると助かります」
「分かった。すぐに用意するから待ってて」
もしもアレンジメントを頼まれたなら、この店の中では新人かつ未だ練習中の身である僕に全く出番はなかっただろうが、幸いなことに花束の中でも簡単な内容のものだったためすぐさま自分で取りかかる。
あくまでもカーネーションをメインに、カスミソウは本数を少なめにして頼まれたとおりのラッピングも整えてから店内を見て回っていた先輩の元へ戻ってくると、少し驚いた表情の彼女がこちらを見上げた。
「氷室くん、すごいね。もうできたの?」
「まあ、ここでアルバイトを始めてから一ヶ月は経っているし。それと、無地のものか、簡単なメッセージが印字されているカードのどちらか無料サービスとして付けられるけど、そっちについての希望はある?」
「じゃあ、無地のカードでお願いします。帰ってお父さんと一緒に書きたいから」
「了解。なら、お会計だね」
先ほどできたばかりの花束を持ってレジに向かい、会計を行っている最中にそういえば彼女もアルバイトをしているのだろうか、という疑問がふと浮かび上がる。
「ところで、……先輩も、アルバイトしてる?」
「うん。家の近所にパン屋さんがあってね、火曜日と木曜日のシフトで入っているよ。引っ越しの少し前に採用が決まったから、私もバイトを始めてちょうど一ヶ月目ぐらいかな」
「そうなんだ」
「ちょっと入り組んだ場所にあるお店だから、普段は学生さんよりも常連の親子連れとか、あとは仕事帰りの人たちが買いに来てくれることが多いかな。あ、氷室くんさえよかったらお店の詳しい情報も教えられるけど、興味ある?」
「……うん。ちょっと行ってみたいかも」
「そっか。じゃあ、家に着いてから連絡するね」
会計も滞りなく済ませると、僕から花束を受け取った先輩が柔らかく微笑む。
「氷室くん。今日は、素敵な花束をつくってくれてありがとう。うちのお母さんもすごく喜んでくれると思う。あなたにお願いできてよかった」
「!」
「母の日直前で忙しいと思うけど、アルバイト、頑張ってね。それじゃあ、またね」
軽くこちらに手を振り、来た時と同じくアンネリーの扉を開けて出ていった彼女の姿はすぐさま雑踏に紛れて消えてしまったが、僕はといえば自分の顔が火照っていることに嫌でも気付かされて小さく溜め息をつく。
彼女と同じ学年の、小波先輩が日頃よく見せている天真爛漫な笑顔とは全く違う。
心から、僕個人に対して感謝していることが伝わってきたあの笑顔を忘れられず、心臓の音がずっとうるさい。ここがバイト先でなかったなら多分座り込んでいた。それくらい、衝撃だった。
「……あの笑顔は、ほんと、反則」
明日も学校だというのに、果たして僕は彼女の前でちゃんと平静を装えるのだろうか。今まで感じたことのない甘い痛みに、僕は頭痛を覚えながらも気持ちを切り替えて仕事に集中する。
――僕の中で芽生えはじめたこの感情により、彼女を戸惑わせてしまうくらいなら。今はまだ、それに明確な名前を付けたくなかった。