4月18日

 自分で決めて入学したはずの高等部で、僕は早々に余裕を無くしてしまっていた。
 レーイチさんと同じ氷室の名前ばかり見つめる周囲がひたすらに煩わしく、入学式当日には、たまたま中庭で目が合っただけの小波先輩に詰め寄ってしまった。

 ――このままじゃ、高等部に入学する前の僕と何も変わらない。

 それでも意地を張って、誰かと無理して過ごすより一人でいる方が気楽でいいから、なんて、僕は僕自身に言い訳もして。
 明日はようやく日曜日だし、帰る前にまた海に寄っていこうかと考えながら下駄箱へ向かっていた時に、その音が聞こえてきた。メロディは全く知らないけれど、なんだかとても柔らかくて優しい心地のするピアノの音だ。
 僕の他にも気付いた何人かが足を止めたが、皆それぞれ用事があるのか名残惜しそうにしながら帰っていく中、僕だけがその音の聞こえてくる方に歩き出していた。
 最初から相手と話がしたい、と考えていたわけではない。ただ、純粋にこの音を奏でているのはどんな人なのか気になって、弾いているところだけでも見てみたいと思ったんだ。
 ……もっとも、音楽室に辿り着いた頃には間近で響く音に圧倒されて、曲を弾き終わったタイミングであっさり本人に見つかってしまったのだけれど。

『私、去年は別の高校に通っていて、今週転校してきたばかりのって言います。見てのとおりピアノが趣味なんだけど、時間があれば一曲だけでもいかが?』

 椅子から立ち上がるなり僕に挨拶してくれた彼女――先輩は、小波先輩と同じく一つ上の学年の人だった。
 しかし転校生ということで初対面から氷室の名前への興味は無く、ただの後輩として接してもらえたことが、氷室として見られ続けた僕にとってはむしろありがたかった。
 結局、初めて出会った日は提案された一曲だけに止まらず、彼女が予めここまでと決めておいた時間まで、僕は先輩が弾くピアノを飽きることなく聞き続けた。彼女が弾く曲はどれも僕の聞いたことのないものばかりだったが、そんなことも気にならなくなるくらい、先輩の指先から次々に生み出される音は不思議と僕の心に沁みた。
 演奏中、ピアノに集中していた彼女は僕に何も特別な言葉をかけてこなかった。
 いや、或いは僕個人に対する言葉が一つもなかったからこそ、入学して以降ささくれ立っていた僕の心により強く響いたのかもしれない。

    ◆

 吹奏楽部が全体練習を行う毎月第三日曜日。
 その直前の週は、吹奏楽部が全体練習当日に向けて楽器の点検やミーティング等で音楽室を使用するため、次にピアノを弾けるとしたらその翌日の月曜日になりそうだと教えてもらっていた僕は、今日の授業が終わるなりまっすぐ音楽室に向かった。
 極端な話、天候か僕の体調のどちらかが悪くなければサーフィンにはいつでも取り組めるが、彼女のピアノは当然先輩がいないと聞くことすらできない。
 とはいえ、先日出会ったばかりの僕らはそもそも連絡先の交換をしていなかったので、もしも今日音楽室に彼女がいなかった場合は大人しく帰ろうとも思っていた。あんなに楽しそうにピアノを弾いていた先輩のこと。たとえ今日は会えずとも、きっとまた別の日に音楽室までやって来るだろうと簡単に想像できたから。

「あっ、氷室くんだ。こんにちは」
「! ……先輩、どうも」
「今日もピアノ、聞きにきてくれたの? そうだったら嬉しいな」

 そんな期待半分の気持ちで音楽室に到着すると、ちょうど椅子の高さを調節していた先輩と目が合って微笑まれた。
 入学直後も咲いていた桜は今や散ってしまい、音楽室の窓の外は葉桜の緑に覆われていたが、窓から入ってくる春のあたたかな風は変わらず彼女の髪を優しく揺らす。

「相変わらず、ここには僕が一番乗りみたいだね」
「うん。とりあえず、今日も一時間区切りで色々と弾いてみるつもりだけど、よかったら一曲だけでもどうぞ」

 この前僕が最後まで聞いていったことも知っているのに、おそらくこちらに気を遣い、敢えて途中で帰ってもいいように言った彼女がそっと鍵盤に指を置く。

(……今日も。いや、急用がない限りはこれからもなるべく、最後まで聞きたい)

 日々の喧噪をも忘れさせる柔らかな音色が、再び僕の心の隅々に沁みわたる。
 この機会に連絡先を交換しておきたい、と口にしたら、彼女には軽い後輩だと思われてしまうだろうか。それでも僕は、あくまでもただの後輩として接してくれる先輩と二人で過ごすこの時間も、悪くないと思っていた。

close