7月9日

先輩」
「うん? ……ああ、氷室くん。期末テストお疲れさま」
「君もね。今日はピアノ、弾いていかないの」

 春の桜から初夏を過ぎて、蝉の鳴き声が絶えずよく響いている現在。
 この学校で初めての期末テストも乗りきり、下駄箱で靴を履き替えていると既にスニーカーを履いていた氷室くんから声をかけられた。

「うーん。弾きたいのもやまやまなんだけど、実は少し夏バテ気味で。やっとテストが終わったばかりだし、今日はどこかで涼んでから家に帰る予定だよ」
「そうなんだ。じゃあ、さ。僕もちょうど喉渇いているし、一緒に行ってもいい?」
「もちろん。しばらく会っていなかったし、カフェで涼もう」

 私たちは学年が違うこともあり、普段は音楽室以外だとそもそも顔を合わせる機会が少ない。初対面の日から意外にも、何度か音楽室にやって来ては私のピアノに黙って耳を傾ける氷室くんとは付かず離れずの友人関係を築けている……と、個人的には思っている。

「君って、結構成績いいんだね。上位の方に名前があったから、ちょっと感心した」
「まあ、学生の本分は勉強だし。進路の選択肢を広げるためにも、やらないよりやっておくに超したことはないから」
「へえ。その言い方だと、音大への進学とかは考えていないの?」
「うん。私にとってのピアノは、あくまでも趣味として楽しむものであって、仕事にしちゃったら逆に弾けなくなっちゃうと思う。だから、元々音大を目指す気はないよ。ところで、あと一週間もしたら夏休みだね。氷室くんは夏休み中もサーフィンを楽しむ感じ?」
「そうだね。他は、親戚のところに挨拶回りに行くぐらいかな。そういう君は?」
「よくぞ聞いてくれました。実はね、市外でちょっと遠いところだけど、来週の日曜日に一日かけてこの写真展のためにおでかけする予定!」

 そう言って私が氷室くんに見せたのは、市外の大きな美術館でこの夏にのみ開催されるとある写真展の特設サイトだ。
 『月と星』をメインテーマとして、世界中のあらゆる写真家が撮った風景写真が多く展示される予定となっており、開催前からこれは絶対に見たいと思ってわくわくし続けていた。正直、この展示のためにも今回の期末テストを頑張っていたと言っても過言ではない。

「……これ、もう誰かと行く予定立てたの?」
「まさか。まあまあ交通費もかかりそうなところに、クラスの子を誘うのは気がひけるし、元々一人で行くつもりだったよ」

 知らない土地まで遠出するのって、どうしてあんなに楽しいんだろう。
 いつ頃に出発して、どんなルートを辿って行くか、またはおみやげをどこで買っていこうか、とか。計画立てている段階でも楽しいんだ。
 なんて、思わずにこにこと笑っていた私とは正反対に、注文していたクリームソーダをぐびぐびと飲んだ彼はなぜか不機嫌そうな表情でこちらを見遣る。

「なに、それ。僕のこと、誘ってくれたってよかったんじゃないの」
「……、……んん?」
「大体、夏はどこにでもナンパしようとする奴が沸いてくる季節なんだから。ただでさえ慣れていないところに、一人で向かおうとするのはナンセンス。危機感が足りていない」
「えっ、ええ~……? いや、遠出とは言ったけど、夕方までにはちゃんと帰ってくるよ?」
「……っ、だから! 交通費ぐらい、僕にだって出せるから一人じゃダメって言ってるの」

 きっ、と目の前の彼から予想外に強めの視線を向けられて驚く。その言い方だと、まるで自分も一緒に行かせろ、と言われているように思えて自惚れてしまいそうなんだけど。

「交通費、ほんとのほんとーに安い金額じゃないけど、氷室くんこそいいの?」
「くどい。僕だって、全く行く気がなかったら最初から言ってない」

 半信半疑で聞き返せば、眉間に皺も寄せられていよいよ本気で怒られそうな気がしてきたので、手元に残っていたコーヒーフロートで喉を潤した後で改めて口を開く。

「じゃあ、お言葉に甘えて。氷室くん。来週の日曜日、私と一緒におでかけしてくれませんか」
「……、……ん。いいよ」
「わーい。なら、待ち合わせの場所と時間も今の内に決めておこうか? えっと、とりあえず場所ははばたき駅でいいとして、」
「却下。当日、僕が君の家まで迎えに行く」
「ええ……? いや、そこまでしてもらうのも、」
「さっき自分で言っていただろ。君、夏バテ気味だって。ああ、僕が着く前に家の外で待っておくとか、そういう気遣いもいらないから。ちゃんと家の中で、大人しく僕を待っていること。以上」

 よかれと思って提案した待ち合わせ場所もばっさりと否定されたけれど、言葉の節々から伝わってきたのはどうやら私の体調を心配しているらしい彼自身の優しさだった。
 あの春の日、ピアノというきっかけがなかったら私たちは出会う機会さえなかったかもしれないけれど。願わくは、どこか不思議で楽しいこの関係性が長く続いてくれると私も嬉しい。

「……氷室くん、心配性だね」
「は? 夏バテ気味って言っている相手に、無理させる方がどうかしている。このくらい、普通でしょ」
「でもね、誰かと見にいけるなんて思ってもみなかったから、本当に来週が楽しみになった。待ち合わせのことも考えてくれてありがとう。優しいね」

 すっかり気分が高揚していた私はコーヒーフロートを食べ進めつつ、スマホに視線を落としていたため何も気付いていなかった。この時の氷室くんが私にじっと向けていた視線の意味と、彼の口から零れていた、切なくも甘さを孕んだ呟きに。




「……違うんだ、本当は。優しいどころか、僕の場合、君への下心でしかなかったのに、」

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