4月9日

 転生、という事象に直面した私が何よりもつらかったこと。
 それは前世で大好きだった数々の曲が、この世界には存在していないという、考えてみればごく当たり前ともいえる現実だった。
 別に音楽で生計を立てていきたいわけじゃない。ただ、お気に入りの曲を自由に聞くことができなくなったのが私にとってはとても残念でならなくて、物心ついた頃に今世の親から習い事を提案された際は迷わず前世でも弾いていたピアノを選んだ。
 そうして地元の高校に進学してからもピアノを弾いて過ごしていたある日、急遽催された家族会議で涙目の父親に告げられた言葉がこちらである。

「お父さん、昇進の関係ではばたき市の支部に異動することになっちゃってさ。でも、今更皆と離れて暮らすなんて無理。だからにも、一緒にはばたき市へ引っ越してほしい」

 はばたき市、という地名に前世では馴染みがなくて少し困惑してしまったが、そういえば世界的なファッションデザイナーとして有名なあの花椿吾郎さんがよく訪れる場所だったことを今世の記憶から思い出す。

「ごめんね、。お父さんには諦めて単身赴任で頑張ってもらうか、だけ一人暮らしというのもありかなって考えてはみたんだけど……後者はセキュリティ的に不安だし、せめてが高校を卒業するまで、家族一緒に暮らす方が安心できると思ったの」

 引っ越すのならばつまりは転校も避けられない、ということで。私に対し、二人揃って申し訳なさそうな顔をしている今世の両親は娘である私から見ても実直な人たちである。
 結局、そんな父親の宣言に快く頷いた私は引っ越しと転校の準備に追われ、この四月からようやくはばたき学園高等部の二年生として新たな高校生活を始めたばかりだった。

    ◆

(それにしても、この学校って私立だからか個性的な人たちが多いみたい)

 転校してきて早々、吹奏楽部の全体練習直前の週以外であれば音楽室のピアノを弾いても構わないという許可を先生にもらってきた私は、前世で特にお気に入りだった一曲を弾きつつぼんやりと考える。
 私の同級生には陸上部のエースに、「劇団はばたき」で座長も務めている男の子、更には双子でどちらもモデルとして活躍している女の子たちなど、何やら華やかな面々が多い。
 ちなみに現在私がいるクラスにそういった顔触れはなく、市外からの転校生である私に対しても概ね親切な人たちが多かった。担任も年配の落ち着いた女性の先生で、このクラスならひとまず平穏に過ごせそう、と胸を撫で下ろしたのはここだけの秘密である。
 ふと、開けていた音楽室の窓から桜の花びらが入ってくる。明日は家族全員で朝から森林公園にお花見へ行く予定だ。お父さん、調子に乗ってあんまり飲み過ぎないといいんだけど……そんなとりとめもないことばかり考えながら弾いていたから、音楽室の前に誰かがいることに気付くまで随分と時間がかかってしまった。

「あっ、……す、すみません」

 水色の髪に赤縁眼鏡をかけたその男の子は、音楽室の扉に手をかけた状態でこちらを見たまま立ち尽くしていた。特に楽譜は持っていないようだけれど、もしかしたら彼もここでピアノを弾きたかったのだろうか。

「私こそ、すぐに気付けずごめんなさい。ところであなたも、今から弾きたかったりする?」
「えっ? ああ、いや。僕は別に……ピアノの音が聞こえてきたから、たまたまここに足が向いたってだけで……」
「そうなんだ。じゃあ、あなたがこの学校で初めてのお客様だね」

 一旦椅子から立ち上がり、変わらず音楽室の扉から動かない彼の方へと歩み寄る。
 前の高校でも、放課後に一人で弾いているとこんな風に足を運んでくれた子たちが何人かいたけれど、彼らも今頃元気にしているだろうか。

「私、去年は別の高校に通っていて、今週転校してきたばかりのって言います。見てのとおりピアノが趣味なんだけど、時間があれば一曲だけでもいかが?」

 こう言ってはみたものの相手は初対面の男の子だし、ほぼ断られるだろうと思っていた。
 ピアノが聞こえたから、わざわざここまで来てくれた。その事実だけでも嬉しかったから、私としては、彼に断られたとしても全く問題なかったのだけれど。

「じゃあ、……せっかくだし、聞いていく」

 この日のことがきっかけで、私は一つ年下の彼――氷室一紀くんと、図らずも学年を超えた交流を重ねていくのである。

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