逢魔が時の邂逅
彼女と初めて出逢った時。
こんな風に、太陽が沈みかけていた薄暗い色の空だったことを今でも覚えている。
『もしかして、神隠しってやつ? うちは神社やお寺とは所縁のない家系だったはずだけど』
――他に行く宛がないなら、ひとまず私の家で休んでいくのもありかもね。どうする?
見知らぬ場所に迷い込み、途方に暮れていた幼いおれに声をかけてきた彼女は最初から強要してこなかった。ただ、手を差し伸べておれの返事を待っていてくれた彼女がどうにも悪い人間とは思えなくて、迷った末に触れたその手の温かさにほっとしたことも懐かしい。
『私の名前は。君のことは、これからなんて呼んだらいい?』
『……、ドリィ』
『ドリィ。早速教えてくれてありがとう』
当時父にも呼ばれていた名前の方で答えると、そのままおれの手を握り返してくれた彼女が柔らかく笑ってくれた一瞬さえ、未だ頭に焼きついている。
悪魔の実や天竜人がそもそも存在していなかったあの世界でのことに関して、当事者のおれ以外にとってはただの与太話としか思われないだろう。だからこれまで誰にも話したことがなかったし、これから話す可能性もゼロに近いと考えていた。
それでも、こちらへ戻ってくる前に彼女に持たされた手製のお守りと二人で撮った写真を見返す度。と名乗った彼女と過ごした日々が、大人になった今でもふと恋しくなる。
「早いものだ。出逢った時のきみの年齢も追い越して、十年以上経つとは」
――かつておれを受け入れてくれた彼女は、あちらの世界でもう誰かと結婚して、その誰かとの間に子どもも生まれている頃だろうか。
我ながら女々しいと思うものの、素直に祝福できるかはさておき再びどこかで会えたなら。当時伝えきれなかった、幼いおれの手を取ってくれた礼だけでも彼女に伝えたいと願っていた。
本当はそれ以上の感情も持っていたが、元より異なる世界の住人である彼女と自分が再会し、剰え添い遂げるのは極めて厳しい未来だろう。
そのように考えてもいたから、この想いもずっと自分の胸の奥に仕舞い続けてきたのに。
「んー、完全にお手上げだなあ。スマホは圏外で現在位置すら不明っぽいし。というか、こんなに大きな鳥居、日本でも滅多に見かけないレベルな気がする……」
古い記憶と違わぬその声が聞こえてきた瞬間。
居ても立ってもいられず駆け出したのは、もはや本能からのことだったのか。
このワノ国で珍しく洋服を纏っていた彼女は、一気に走り寄ってきたおれを見てただ驚きの表情を浮かべていた。
◇◇
その日は、事故にあったり大怪我を負ったりしたわけでもなく。
家へと向かう帰り道、その途中にある曲がり角を曲がった瞬間に見えていた世界が一変さえしていなければ、きっとありふれた日常の中の一日で終わっているはずだった。
「じゃあ、……ここは、ドリィが生まれたところってこと?」
「世界という意味ではそうなる。もっとも、この場所自体はワノ国という世界政府非加盟の鎖国国家だ。おれの出身である北の海は、ここから更に遠いところにある」
くぐった覚えもない大きな鳥居の下で、早々に圏外となりここでは全く役に立たなさそうなスマホを眺めてどうしたものかと溜め息をついていたところ。
血相を変えてこちらに走ってきた一人の男性が、まさか昔一緒に暮らしたことのある男の子と同一人物だとは夢にも思っていなかった。
『。おれのこと、まだ覚えているか?』
初対面のはずなのに名前を呼ばれたことにも驚いたけれど、そう言って彼が差し出したお守りは確かに私がドリィにだけ渡したことがあったもので。それを見てようやく、私よりだいぶ身長の高いこの男性がドリィ本人なのだと理解できて嬉しい感情を覚えながらも、まずは現状の把握に努めることに集中した。
現代では縁のなかった海賊に海軍。それからこの国は今、百獣海賊団の拠点となっており、ドリィも理由があってそこに所属していることなど。
彼の口から伝えられるこの世界についての説明を聞く内に、もしもドリィがここを通りかからなかったらあっという間に不法入国者として捕まっていただろうことも簡単に想像できて身体が震える。今更ながら、私は大変な世界に迷い込んでしまったようだ。
「……大丈夫か?」
「え?」
「顔色が悪い。いや、おれが立て続けに話しすぎたせいか……すまない」
「あ、ううん。ドリィに色々教えてもらえて、むしろ感謝しているくらいだよ。ありがとう。でも、今の私の持ち物ってここじゃ大した価値にならないだろうし、どうしたものかな」
すぐに寝泊まりできそうな家はおろか、そもそも着替えや食料の蓄えすらない現状に頭が痛くなってきそうだが嘆いてばかりもいられない。こうして立ち尽くしている間にも、どんどん日は落ちていって必ず夜がやって来るだろう。そうして辺りが真っ暗になるまでに、少なくとも今日一日をどのように凌ぐか考えなくてはならない。
「どうしたもなにも。おれのところに来れば解決する話だろうに」
「……えっ、」
「……まさかおれが、ここできみを放っていくとでも思ったのか?」
じっ、と私を見下ろしたドリィはどこか拗ねたような表情を浮かべていたが、私が何も言えないでいると、その内彼の背中を覆っていた長いマントを取り外しはじめた。
「久し振りの再会で、話をしておきたいことはほかにもたくさんある……が、夜になってもここで話し続けるのは流石に、の身体を冷やしてしまうだろうからな」
外したマントを私の身体にかけると、そのままなんの躊躇いもなく身体ごと持ち上げられたことに慌ててドリィの腕にしがみつく。それでも私以上に太くなった腕はびくともせず、鍛えているんだな、というありきたりな感想しか浮かんでこなかった。
「気休めに過ぎないかもしれないが、これで多少寒くはなくなるはずだ。どうだ?」
「う、うん。それは大丈夫なんだけど。ドリィ、私、自分の足で歩けるよ?」
「……悪いが、今はこのまま大人しくしていてくれ。おれのところに着くまで、の存在はなるべく周囲に伏せておきたい。それに変に目をつけられたら、苦労するのはきみ自身だ」
そこまで言われてしまえばわざわざ抵抗する気も湧かず、一応納得した私はドリィの言うとおり彼の腕の中におさまった。ただ、自分が重くないかが気がかりだったが彼にとっては本当になんともなかったらしく、歩き出したドリィによって鳥居から離れていく。
「」
「ん?」
「きみにとっては全く予期せぬ出来事だったと思うが。おれはまた、こうしてと出逢うことができて嬉しいよ」
身体が大きくなっても、昔から変わっていなかったドリィの青い瞳に射貫かれて。
まるでこれから駆け落ちするみたいだなあ、なんてうっかり場違いなことを思ってしまう。
けれどもそれを正直に伝えたら、間違いなく彼を困惑させるだろうことも分かりきっていたので。代わりに、私もまた会えて嬉しいよ、と敢えて月並みの返事を返した。
◆
「ドリィ。本当に、そこで寝るの?」
「ああ。今夜はそのつもりだが」
「いや、その体勢じゃ身体に負担がかかって休めないでしょうに。別に何もしないんだから、ドリィもこっちで一緒に横になったら?」
「……」
壁に上半身だけ寄りかかった体勢で座っているドリィを見かねて声をかけると、本人は梃子でも動かないつもりなのか、静かに目を逸らされたので強行突破に出ることにした。
なにぶん急に私が現れたことですぐ部屋を用意するのは難しかったらしく、いったんドリィが拠点としている部屋へ連れてこられたものの、生憎私には部屋の主を差し置いてぬくぬくと眠る趣味はないのだ。
「ちょっと失礼」
「っ、な、」
わざわざ許可を貰うより早く、ドリィの太股の上に陣取って彼を見上げる。
焦っているドリィも可愛い、と内心思わないでもなかったが、これだけは言っておかなければならない。
「ねえ、ドリィ。ドリィは、多分私が女だから気を遣ってくれているんだろうけれど。ちゃんと眠れなかったら、明日の私が心配することにもなるって分かってる?」
「……そ、れは」
「まあ、男女としての体格差もあるけど。私はドリィが教えてくれた悪魔の実の力を持っていない、ただの民間人でしかないことはこの世界でドリィが一番よく知っているんだから。寝る時くらい、もうちょっと気を緩めてもいいんじゃない?」
その気になれば、君は私をどうとでもできるんだから。と続けて伝えると、ドリィの喉仏が分かりやすくごくりと動く。こうして間近で見ると本当に男の人なんだなあ、としみじみ思いつつ様子を見守っていると、結局私の意見に折れたらしい彼が溜め息をついて立ち上がった。その際も当然の如く彼に身体を持ち上げられた末、部屋に敷かれていた一つの布団の上に二人で並んで寝そべる。
「こうしていると、向こうで一緒に寝ていた時のことも思い出すね」
「……、そうだな」
しゅる、といつの間にか長い尻尾が身体に巻きつけられてドリィの方に引き寄せられる。てっきり照れていたのかと思ったのに、横になった途端くっつこうとしてくる彼の思惑がいまいち私には分からなかったが、とりあえず悪いものではないのだろうと早々に結論づけた。
「なあに? そんなことしなくても、ここから逃げないよ」
「」
「んー?」
「、……」
「……ふふっ。言いたいことがあるなら、また次の機会にでも教えて。おやすみ、ドリィ」
「……おやすみ」
能力で途中まで恐竜の姿に変化していたドリィにそれ以上何も言わず、私も彼の身体へとくっつく。大きな身体から伝わる体温がひどく心地よい。元々異世界に訪れたことへの動揺と不安もあったのか、その夜は、いつもよりずっと早く意識が途絶えて深い眠りに落ちていった。
「――もう二度と、きみを手放しはしない」