call from eden

 大金を得るために、かつて家族だと思っていた人の手で呆気なく売り飛ばされた日から既に何年が経ったのだろう。季節感の一つも感じられない殺風景な部屋に押し込められて以来、私を買い取った人たちの指示に従い、あらゆる建物やシステムに対して不正な侵入をさせられてきた。不幸中の幸いか、これまで反抗してこなかったためこれでも私は彼らに重宝されているらしい。

「だけど、この部屋で終わりを迎える未来は嫌だな……」

 刻々と移り変わる空の色も、髪を揺らす自由な風も。昔は、傍にあって当たり前のものだったそれらを見聞きすることすら出来なくなった現状を一瞬でも空しい、と感じてしまったらもうだめだった。
 息が詰まりかけてなお、どうにか指先は動かし続けてごく短いメッセージも添えた座標を治安維持組織宛てに送信する。救助要請の通報として対処してもらえるのか、或いは単なるいたずらと判断されて何も見なかったことにされるのか。たとえ後者になってしまっても、自力での脱出は難しい以上継続して送り続けてみようと決めた私は古びたベッドの上に寝そべった。
 じきに、与えられた指示を放棄したと見なして彼らが押し寄せてくる可能性が高いのも理解していたけれど。この部屋唯一の入口である扉の解除は、私から見てもそれなりに手間がかかる代物なので今すぐ命の危機には陥らないはず、と期待しながら目を閉じる。

(誰かが、扉をこじ開けてでもここまで辿り着くか。それとも私自身が飢えてどうにもならなくなるのが先か)

 いずれにせよ、もはや息苦しさ以外に何もない日々が終わってくれたらそれで良い、なんて身勝手に願った数時間後。扉の前に集まった彼らを一網打尽にしたうえ、力業で解除も成し遂げた当局の隊員さんから手を差し伸べられた。

「長い間、一人きりで心細かっただろうによくぞ今日まで持ち堪えてくれた。もはやここに其方を脅かす者はいない。そして、これからの其方の安全は我が保証しよう」

 そう言われて、散々迷った末に触れてみたその手は力強くも優しく私の手を握り返してくれて。気がつけば両目から溢れていた涙を丁寧に拭われた時、悪いことばかりだった私の人生が、ようやく少しは報われたような気がした。

    ◆

「隊長さんは、……どうして、私に声をかけてくださるんですか?」

 私を買い取った悪い人たちが皆捕まって、私自身は街中の小さなパン屋でアルバイトとして働きはじめた頃。あの日、手を差し伸べてくれた治安維持部隊の隊長さんは首を傾げつつ、今日も店頭に並んだパンの数々を淀みなくトレーへと積み上げていく。
 いつもたくさん買っていくのは、自分で食べる分以外に部下たちへの差し入れも兼ねているからと以前教えてもらったが、そんな隊長さんはなぜか私と会う度律儀に声をかけてくれていた。更には店のおつかいで不在の際、私が元気で過ごせているか尋ねられた日もある、と満面の笑みを浮かべた店長に聞かされて気恥ずかしくなったのもつい最近の話だ。

「ふむ。どうして、とは?」
「だって、その。ここのパンが美味しいのは私もよく知っていますけれど、詰め所からはそれなりに距離が離れていますし……もし、隊長さんがわざわざ足を運ばれているとしたら、なんだか申し訳なくて」

 ほんの数回程度だったら私も気にしなかっただろうけれど、覚えている限り十回以上は連続で鉢合わせている辺り、もしかしたら隊長さんにそうしなくてはならない事情でもあるのかもしれないと考えて今に至る。
 当局の調べにより、捕まった彼らと私が元々無関係だったのは早い段階で明らかにされたが、それでも最後まで私に疑いの目を向ける隊員さんがいたのは仕方がないと納得していた。また、そちらとは別にあの組織で培われたハッキングの技術を活かしてみないかと率直に誘ってきた人もいたが、意外にも隊長さんの口からそういった話題は一切出てこなかった。代わりに私たちは無難な世間話しかしてこなかったはずだが、本当は私に聞きたい内容があったのだとすれば一応辻褄が合う感じもする。

「我がここへ来るのは、其方にとって迷惑だったか?」
「いえ、そのようなことはありませんよ。ただ、日頃から隊長さんはお忙しいでしょうによくお会いするので、私に聞きそびれた話があったのならむしろ言ってほしい、です」
「……」

 店長が作業中のため奥に引っ込んでいる状況とはいえ、突然連行される事態は起こらないと思うものの沈黙する隊長さんを前に何やら私も緊張してきた。他にお客さんもおらず、微かな物音を立てるだけでどきどきしている私がその場を動けずにいた一方、いつの間にかパンを積み上げきった隊長さんがこちらへと歩み寄っていて。

「聞きそびれた、というよりは今まで口に出せずにいたのだが。其方を見かけると、近頃の我はつい、その愛らしい声をいつまでも聞いていたくなってしまうのだ」
「……、……え?」
「確かに、最初は其方がまた泣いていないか心配だったのでここを訪れたのも事実だ。しかし、其方は我が思うよりずっと強く、自ら前を見据えて歩けていた。そしてそんな其方と言葉を交わす度、可憐に微笑むところも実に好ましい、と思うようになっていった」
「えっ、あの。隊長、さん……?」
「当局が絡んでいる可能性を危惧したのかもしれないが、そうではない。我が其方に会いたかった。其方が元気でいてくれると、我にとっても喜ばしいのだ」

 ――つまり、好いた相手と少しでも親交を深めたかったわけだが、ここまでは理解してもらえただろうか。

 怒濤のような情報を与えられてちっとも頭が追いつかないのに、隊長さんの真剣な声音のせいで本気だと伝わってきて勝手に身体が火照ってしまう。どうしよう。正直、こんな方向性になってしまうとは全く予想していなかった。

「隊長さんのお気持ちは嬉しいのですが。そもそも、私と隊長さんでは、色々と釣り合わないのでは……」
「其方が過去を気にするのも当然であろう。残念なことに、当局の中にはあの件の被害者である其方を疑っていた者たちもいたからな。だが、我自身そうは思わない。其方はとても魅力的で愛らしく、ともに居るだけで、充分我を幸せにしてくれている」
「……」
「フフッ。そんなことはない、と言いたげな顔だが、我にとっては紛れもない事実だ。だが、この場での返答は其方にとって無理難題であるのも重々承知している。ゆえに、其方とは引き続き親交を深めていければ、と考えているが如何だろうか?」

 初めて会った日と同じく、手を差し伸べられていた私はここでもやっぱり迷った後で再び隊長さんの手に触れる。
 あの頃と違い、香ばしいパンの香りに包まれた店内で再現されたのは自分でも不思議な気がしたが、変わらず私の手を握り返してもらえたことにとてつもなく安堵して。今後、隊長さんの提案通りまずは仲良くなっていけたらいいな、とこの時は呑気に思ったのだった。

    ◇◇

 初めて出逢った時、傷ついて不安げに我を見上げていた眼差しも。
 当局での保護には頼らず、自ら働きはじめたパン屋で隊長さん、と我に呼びかけてくれた時の眼差しも。
 そして今、帰宅した我の無事を喜び、たくさんの愛情が込められた眼差しも――愛しい伴侶の全て。我は、余すところなく憶えている。

「おかえりなさい、あなた。お仕事おつかれさまでした」
「ああ。ただいま、

 玄関先で外套を脱ぎつつ、出迎えてくれた伴侶の頬に軽く口付けてどちらからともなく抱擁する。

「ん、……ふふ。こうやって、あなたにぎゅっ、とされるとすごく落ち着きます」
「それは良かった。我の留守中、大事なかったか?」
「はい。そういえば、久し振りに店長から試作品としてスコーンをお裾分けしてもらったんですよ。明日の朝食にする予定でしたが、あなたも一緒に召し上がりますか?」

 肯定の返事をすると、スコーンに合いそうなジャムやクロテッドクリームも用意したので是非そちらも楽しみにしていてほしい、と目を輝かせて教えてくれた伴侶に微笑ましくなる。本当はいつまででもこうしていたいが、万が一にも風邪をひかせるのは避けたいため、お互い落ち着いた頃合いを見計らって居間に向かうことにした。
 いったんソファに腰掛けるも、おそらく気を利かせて飲み物でも入れようと立ち上がりかけていた伴侶に手を伸ばして引き止める。長らく卑劣な者どもによって閉じ込められ、痩せ細った当時と比べればだいぶ健康的にはなったが、それでも華奢な伴侶を見ているといつだって庇護欲が湧いてきてしまうものだ。

。帰ってきて早々ですまないが、其方から褒美を貰いたい」
「ご褒美、ですか?」
「うむ。と言っても、言葉のまま金品を要求しているのではなく、単に褒めて欲しいのだ。其方に労ってもらえたら、また明日より我が励むための活力になるのでな」

 先程玄関先で出迎えられただけでも癒されてはいるのだが、更に伴侶の愛を感じたくてそんなことも言ってみる。勿論、無理のない範囲で構わない旨も伝えたところ、間を置いて小さな伴侶の手が我のネクタイへと触れた。そうしてしゅるり、と音を立ててネクタイがほどかれた後。緩んだ首元に一瞬だけ、柔らかな熱が触れて。

「……今日も、怪我一つなく帰ってきてくれてありがとうございます。えっと、あの、」
「……」
「その、~っ、……誘ったつもり、でした……」

 耳朶まで赤く染まったかと思えば、それきり俯いて相当恥ずかしがっているらしい伴侶にうっかり理性が飛びそうになる。何に誘われたのか、についてはこんな姿を見せられれば自ずと理解出来ていたが、余りの愛らしさにじわじわと我の身体も熱くなってきた。
 ここが居間であることさえ、頭の片隅に追いやって伴侶の腰に手を添える。更にもう片手で顎を掬い、ゆっくりと触れるだけの口付けを幾度となく繰り返した。絶えず甘い吐息が零れる。互いの熱を分かち合う行為に、二人とも疾うに夢中になっていた。

「んっ、……、ふ、」
。可愛い我の伴侶。其方を愛している」
「んん、っ、あなた。ここじゃ、だめ……」
「分かっているとも。其方に誘ってもらえて嬉しかった。だから、……このまま、褥に連れて行っても問題なかろう?」

 もっと味わっていたい唇から一度離れて、未だ赤い耳元で囁きながら今度は我から誘いをかける。ますます真っ赤になった伴侶は暫くの間唸っていたが、やがて、まっすぐに我を見つめると花が綻ぶように笑ってくれた。

「いつか、あなたが言ってくれたように私も一緒に居るだけで幸せです。優しくて、愛しいあなた。この先もどうか、私を離さないでいてくださいね」

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