羊水に溺れるような陶酔を

「さて、これからどうする? ここから逃げ出すか……、それとも私の仕事に付いて来るか? どちらに転んでも構わない。私を愉しませてくれ」

 お気に入りのあの店で、五日間相席してきたドルネドに爛々とした眼差しを向けられた私は正しく混乱に陥っていた。効果が抜けるのはあと半日、と言われたとおり確かに自分の身体は上手く動かず、どことなくけだるいような感じもする。

(てっきり、また『ワーカーズハイで』会おう、という意味かと思っていたのに……)

 いつもと同じく自宅を出て、今日も今日とてくたくたになるまで働く予定だった仕事先へと向かっていたはずが、つい先程目覚めるまでの記憶が完全に抜け落ちている辺り彼の腕前が見事だったと言わざるをえない。
 勿論、転居や転職等の一般的な手続きを行う暇すらなかった現状を思うと溜め息ばかりが零れたが、相変わらず赤く光らせた目でじっとこちらを見つめているドルネドもそれ以上話すことはないらしく。沈黙が流れた後、口火を切ったのは観念した私の方だった。

「ドルネド。私の身体が動けるようになってからでいいから、早速お願いがあるんだけど」
「ふむ。どういった内容だ?」
「次に立ち寄る街とかで、その、……せめて下着や衣服は自分で調達させてほしくて。流石に女物を運ばせるのは申し訳ないというか。ああ、店から逃げ出さないかが気になるなら、ドルネドが嫌じゃなければ入口で待っていてもらえたらいいかなとも思うんだけど」

 そもそもドルネドの次の行き先すら分かっていないのに逃げ出すのは危険だ、と判断して尋ねるも、いっこうに返事が返ってこなくて再び沈黙が訪れる。買い物を理由に逃げると思われているのだろうか。はたまた、この提案自体却下されるのだろうかとだんだん不安になってきた頃、この五日間でだいぶ聞き慣れた笑い声が彼の口から漏らされた。

「ドルネド?」
「……ああ、笑ってすまない。そのくらいならばお安い御用だ。ちょうど、次に寄るのは大きめの都市だからな。お前の趣味に合う服屋も、きっといくつかは見つけられるだろう」

 そう言って、ドルネドが懐から取り出したのはどう見ても大金と思われる札束で。驚きで固まる私をよそに彼は全く動じず、なぜか私の手にその札束を遠慮なく握らせてきた。

「当面の間の生活費も兼ねて渡しておく。よほどの贅沢品でなければ問題ないと思うが、不足した場合は都度教えてくれ。相談があるのならば応じよう」
「……、ドルネド。あの店で奢ってくれた時も思っていたんだけど、気前がよすぎない? しかもそんな、他人に大金を渡すのは危ないよ。私が単なる我儘と見せかけて、実は着々と逃亡資金として貯金するタイプだったら、その内ドルネドが無一文になっちゃうかも」

 遠回しに大金すぎるので受け取れない、という意味も込めて未だ上手く動かせない腕をどうにか上げようとするも、その腕すら容易く掴まれてしまう。別に力を込められたわけでもないのに大きな手を熱く感じたのは、単に気のせいだったのだろうか。

「ハハハ! 私としては、仮にそうなったとしても実に愉快な出来事でしかないが……お前はどうも、勘違いをしているようだ」
「え?」
「大前提として、私が誰に対しても気前よく金を渡すお人好しなどではない、という重大な事実を失念している。それに、本気で逃げ出す気ならば黙って受け取ればよかったものを、お前はわざわざ私に向かって危険だと口にした。つまり、今のところは私の元から逃亡する気がないのだろうと推察出来る。しかもこの私が無一文になる可能性を心配してくるなんて……本当に、お前の素直さときたら。いっそのこと清々しいくらいだな」

 掴まれていた腕は離された代わりに、今度は片手で目元を覆われたことによって途端に視界が暗くなる。特に圧迫感はない。ただ、いつまで待っても視界が真っ暗のままドルネドの手が離れていかないのが不思議で声をかけようとすれば、それも見越していたのかもう片手の指先で唇を軽く押されてしまった。

「どのみち、次の依頼先でもある街まで到着するのもあと半日程度はかかる。副作用のこともあるが、お前はそれまでゆっくり休んでいればいい」

 ――少なくともこれ以上、私には、お前に対して何らかの危害を加えるつもりはない。

 私の同意も得ずに攫っていった張本人のくせに、囁かれた言葉のいずれもドルネドの本心が滲み出ていて、やや複雑な気持ちになりながらもゆっくりと眠気に落ちてゆく。どこかでマスターに一言無事だと連絡くらいはしたいものだが、どういうわけか私に執着しているらしいドルネドならばありとあらゆる手段をもって妨害してきそうな気がしたので、いったんそれも諦めた私は大人しく目を閉じることにした。
 お気に入りのあの店で、いつかまた私がマスターの美味しい料理を食べられるまで――どうやら相当の月日がかかりそうだ。

    ◇◇

 酒に酔い潰れて一足早く夢の世界に旅立ってしまったの身体を抱え、本人が選んだ拠点内の部屋へと向かう。机と椅子、それからいくつかの本が収納されている本棚を素通りして部屋の隅に置かれたベッドへ下ろすと、未だ赤みが抜けていない頬を隠すかのように寝返りを打たれて無防備な背中が曝された。
 少しだけ考えて、と部屋の壁との間に自分が寝そべられる程度のスペースをつくってから、当分起きる気配がない彼女の隣へと身を寄せる。こんなにも至近距離で他人の穏やかな寝息に耳を澄ませるのは、思い出せる限りでは初めてのことだった。

「……あの時、お前に泣かれるか。罵倒されるかぐらいのことは想定していたのだがな」

 ――仕事のために訪れたあの店で、と共に食事をして。そうして、他愛もないことを話して過ごす時間を、意外にも私自身が気に入って。

 五日目の夜、一緒に行かないか、という誘いを断られた私は会話での説得に失敗した結果、仕事に向かう途中だったを己の艦まで攫ってきた。
 職業柄、好機は逃すまいと決めているのでその行いについて一切後悔はしていないが、当時目覚めたが最初に要求してきたことがまさかの衣類だったのは、あれから幾許かの時を経た今なお私にとって忘れられないエピソードの一つであるのも確かだ。

「お前が自分で服を調達している間、私が靴を選んで贈ったのも懐かしい思い出だ」

 待っている間手持ち無沙汰だったので単なる思いつきだったのだが、その時も恐縮しながら受け取ったは、結局今日に至るまで大事にその靴を履いている。破損したらいつでも言うように何度か伝えてはいるものの、生活費として渡した金も時折服の買い換えや気に入った書物に使われるぐらいで、かつて彼女が口にしたような逃亡資金として貯め込まれている形跡もなかった。

「本当に、お前は素直な正直者で、私とは全く違う。だが、……だからこそ興味深い」

 常日頃身に着けている手袋越しに、ほんのりと赤らんだ頬を自らの手で包み込む。私がすぐ隣で寝そべっているとも知らずに呑気な寝顔だ、と思いながら顔を近付けてみた矢先、それまで閉ざされていた唇が僅かに開いて。

「んん、……マスター、ごめん」
「!」
「ごめんね。もうしばらく、そっちには行けそうにないや。マスター、……ゆるして、ね」
「……」

 思わず何秒間か息を潜めたが、完全に起きたわけではなく単なる寝言だったらしい。しかし、その寝言は少なからず私に衝撃を齎していた。

「……、成程。お前の心の奥には、今もあの店とマスターの存在が強く根付いているのか」

 返事がないと分かっていても、すっかり熟睡しているの首筋を指先で軽くなぞる。私がこのまま力を込めようものなら折れてしまいかねないそこを、実際にそうする意図こそなかったが、それでも私の心がちりちりと焦がれてゆくように感じるのはなぜなのか。

。眠っていても、お前は私をこんなにも焚きつけてくれる。非常に希有な存在だ」
「んっ、」
「ああ、……もはやこれでは、どちらが囚われているのやら分かったものではないな?」

 ――だが、私はいっこうに構わない。私と全く異なるお前は、ゆえにこの先も私を愉しませてくれるに違いないのだから。

 薄い唇ごと覆ってしまうように口付けて、力の抜けた柔い舌先を己のそれでゆっくりと弄ぶ。

(いつの日か、お前が漏らす寝言さえも全て私の名前に置き換わってしまえば良い)

 そう願いながら、私はと二人きりの夜を心置きなく過ごすのであった。

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