青い空、白い雲。それから透きとおった碧海の傍で寄り添うように咲く、色とりどりの鮮やかな花々。
 まるでこの世の楽園の如き様相を呈したそこは、しかしながら現実に存在する場所ではなく――浜辺より少し離れた木陰で身を横たえている人物が、今まさに見ている夢の中の景色そのものであった。

「オレしか出向かないところだと分かってはいても。相変わらず、アンタは無防備だな……」

 ここにはいないワーカーズハイのマスターが盛大に溜め息をつく姿が思い浮かんだが、夢の主であるがオレを拒絶していないのでおそらく問題ないのだろう、とすぐさま結論づけて歩み寄る。
 夢の中であるがゆえか、ベタつく潮風ではなく穏やかで優しい風が二人の間を吹き抜けるも、お目当ての相手はピクリともせず。仕方なく隣に腰掛け、その華奢な身体を抱き寄せるとオレの膝の上に座らせた。やがて、ゆっくり目を開けた彼女がオレを認識したかと思えば、は随分と楽しげに微笑んでみせて。

「いらっしゃい、スクリック。夢で逢うのは一ヶ月振りだったかな」
「ああ。前回は星明かりに満ちた草原、その前は丘の上に広がる花畑で、アンタはいつも気持ちよさそうに横になっていた」
「ふふ。よく覚えているね」
「勿論、覚えているとも。頻度は高くないが、これまで出向いた他者の夢の中でもアンタが見る夢はいっとう居心地が良くて、オレ自身気に入っているんだ」

 ――何より、夢の中ならば炎を気にせずアンタに触れられるのが良い。
 大人しく座ったまま、こちらを見上げているの頬に片手を添えると柔らかな肌から温もりが伝わってくる。本人が不快と感じたならば払い除けられることも覚悟の上で伸ばしたオレの手は、意外にも振り払われず。むしろ、温度を確かめるかのように擦り寄られて、内心驚かされたのはここだけの話にしておきたい。

「以前から思っていたけど、スクリックの手って結構大きいね」
「……まあ、アンタの手と比べればそうなるだろうな。ところで、現実のアンタは最近多忙らしい、と聞いたが」
「それって、マスターから?」
「そうだ。二週間ほど前、あの店に立ち寄った際にはアンタの姿をついぞ見かけなかった。ここ数ヶ月、明らかに来店ペースが減ってきているとマスターも心配していたぞ」
「……そっか。それは、マスターに悪いことしちゃったなあ」
「たとえば、アンタの身に何らかの厄介事や、危機が迫りつつあるだとか……そういった事情があるのなら話せる範囲で構わない。どうかこのオレにも、教えてはくれないか?」

 オレの隣に来て欲しい、という誘いを一度は断られたこと。その上、と親交のあるマスターでさえ未だ知らされていないらしい事情を打ち明けてもらえる可能性はかなり低い気がしたが、そうであっても結局尋ねずにはいられず彼女の瞳を覗き込む。
 オレに見つめられたは暫くきょとんとしていたが、本人の中で得心がいったのか、語られたのはオレの予想とは裏腹に軽やかな口調での返答だった。

「ああ、大丈夫。スクリックが心配しているような危険な事態には陥っていないよ。ただ、本気で集中していたものだから、うっかり食事をとるのが疎かになってしまってね」
「……念のために聞いておくが、誰かに追われているわけじゃないよな?」
「うん。秘術に関する研鑽と鍛錬がメインで、あとはその合間に仕事の引き継ぎ作業も進めていただけ。なるべく、スクリックと現実でも長く一緒にいられるようにするためにね」
「!」

 魔道士の秘術に明るいことを伝えられたのは今回が初めてだが、それよりも重要な情報を聞かされて年甲斐もなく胸が弾む。てっきり本人の仕事で忙しくなったのだろうかと思っていた矢先、まさかそこにオレが絡んでいるとは思いもしなかった。

「スクリックの炎って、深く関わろうとした者に対しては耐性と関係なく、強制的に発動しちゃう代物なんでしょう? だから炎を無理矢理どうにかしようとするんじゃなくて、敢えて私自身の意識を別方向に逸らしたり、ついでに炎への耐性も更に高めたり出来る秘術を身に着けておけたら……スクリックも安心するかなあ、って思ったのがきっかけで」

 そのために、わざわざ関連がありそうな古文書の類いを手当たり次第に読み漁り、助言を求めて数少ない魔道士の知り合いも訪ねていた内。気付けば数ヶ月の月日が流れていた、なんて言われたら――この身より生じた期待は、もはやどんどん膨れ上がってゆくばかりで。

「まあ、そんなわけで。多少時間はかかってしまったけれど、ようやく当初の目的に近い秘術は修められたから。スクリックが心変わりしていなければ、次の公演のタイミングとかで迎えに来てくれたら嬉しいよ」

 こともなげににこにこと提案されて、思わず頭を抱えたくなる。ああ、オレがこんなにも歓喜の情を覚えたのは果たしていつ振りのことだろうか!
 少なくとも、あの日、あの店でと出逢えていなかったなら。オレはきっと、こうして彼女の柔らかな眼差しを間近で見つめることすら一生叶わなかったに違いない。

「まったく、アンタってお人は……一ヶ月前にオレが夢に出向いた時は、そんな素振りすら見せていなかったはずなのに」
「ふふ。だって、私も一度はスクリックを良い意味で驚かせたかったもの」
「……万が一、オレが心変わりをしていたら。アンタはどうするつもりだった?」

 子どもみたいに微笑むを前に、自然と滑り落ちたのはそんな仮定の話で。
 今この瞬間でさえ、本人の許可も得ずいっそ抱きしめてしまいたい衝動に抗っているオレがそうなるのはあり得ないだろうと思うものの、問われた彼女は小首を傾げてみせる。

「うーん……その時は、一人で傷心旅行にでも行っていたかな? 動機が何であれ、時間をかけて習得した知識や秘術は決して無駄にはならないと思っているから」

 ――でも、私の心が落ち着かない限り夢と現実のどっちでも、……スクリックとは、こんな風に顔を合わせられなくなっていたかも、ね。

 先ほどまで浮かべていた笑顔とは全く異なる、寂しさの滲んだ表情を見せられた途端に胸がざわめく。話を振ったのはオレの方なのに、身勝手にも、がオレから離れていってしまう光景を想像したらそれだけでもう耐え難いと思ってしまった。

「スクリック?」
「悪かった。アンタに、そんな顔をさせたいわけじゃなかったんだ」
「はは。今の私、そこまでひどい顔だった?」

 自分では見られないからよく分からないや、と続けて呟いたの身体を、とうとう抑えきれずに抱きしめる。
 お互いにここが夢の中だと理解しているからこそ離れがたく、小さな背中に腕を回せば、からもゆっくりと抱きしめ返されて。それだけでたまらなくなった。

「……この夢から目覚めたら。早急に、アンタを迎えに行くとしよう」
「ありがとう。でも、団員さん達の都合とかもあるだろうし、焦らなくて良いからね」
「そう言ってくれて嬉しいのはやまやまだが。単にオレが、起きてからもアンタの隣にいたいんだ。だから、……現実でも、良い子でオレを待っていてくれ」

 もう一度だけ、が苦しく感じない程度の力を込めて抱きしめてから名残惜しくも離れようとした瞬間。可愛らしい音とともに、柔らかな唇の感触が確かにオレの顔の辺りを掠めて、二人とも身体の動きが止まった。

「……」
「……」
「……オレの勘違いでなければ。さっきのは、アンタからオレに接吻を贈ろうとしてくれた、と判断して良いのか?」
「っ、……その、スクリックが寂しそうに見えたから、つい。嫌だった?」

 上目遣いの彼女にじっと見上げられて、柄にもなくまた胸が高鳴ってしまう。
 早く現実で迎えに行ってやりたいのに、そんないじらしいことをされては余計にこの夢から目覚めたくなくなるのを分かってやっているのか……いや、わりと顔を赤らめている辺り、多分本人は意識すらしていなかったのだろうが。

「ハッハッハッ! 嫌ではないさ。余りにも一瞬だったのが至極惜しい、とは思ったが」
「え、」
「お客様。このスクリックの心を見事、奪ってくださったこと。またアナタとお会い出来るその日まで……ワタシと見た、この愛おしい夢も含めてなにとぞ、お忘れなきよう」

 じんわりと、未だに火照っていたの頬を両手で優しく包み込んでから遠慮なく顔を近付ける。
 そうして寄せては返すさざなみの合間、幾度となく彼女の唇から漏れる甘い吐息を聞きながら、オレは生涯今宵の出来事を忘れないのだろうと思った。

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