累月に折り重ねては見えたもの
お風呂から上がって居間に戻ってきた後、いつもは欠かさず声をかけてくれるはずのあなたがソファに腰掛けたまま身動ぎもしていないことに気がつく。極力足音を立てないように注意して歩み寄ると、どうやら微かな寝息を立てて眠っているようだった。
思い返せば、緊急の連絡が入った関係で早朝から慌ただしく仕事へ向かい、日付が変わる手前にようやく帰ってきたばかりだったので、顔に出さなかっただけで実は相当疲れていたのかもしれない。
「先に寝室で休んでいてもよかったのに。待っていてくださったんですね」
返答はなかったものの、未だ起きる気配のないあなたにただ温かな気持ちが溢れる。
いつだったか、頑丈なので滅多に倒れることはないと言われていたけれどそれでも万が一を考えて、寝室からこの季節特に愛用している大きめのブランケットを持ってきた。そうして身体の冷えを防ぐべくブランケットを掛けながら、私も隣に座ってそっとあなたと腕を組む。ふたりきりの今ならば、なんとなく素直に甘えられる気がしたから。
「……幸せすぎて、たまに怖くなる瞬間があるんです。あなたと過ごす時間が夢で、本当は昔と変わらずひとりだったらどうしよう、って」
あなたが私にたくさんの幸せを贈ってくれる度。
過ぎ去った日々との差が大きすぎるあまり――夢ではありませんように、とどこか心の片隅で祈ってしまう私がいて。
眠るあなたに聞こえるはずがないと分かっていても、一度溜め息をつけば自問せずにはいられなくなって俯く。
「こんなにも幸せで、いいんでしょうか」
「いいに決まっているとも」
驚きで顔を上げた私に対し、すぐさま触れるだけの優しい口づけが降ってきた。
組んだ腕はそのまま、もう片方の手が頬に添えられたかと思えば指先でゆっくり耳の淵をなぞられて、その擽ったさにびくりと身体が跳ねる。
突然顔も赤くなったに違いない私を見て、完全に起きた様子のあなたはとても楽しげな声を上げた。ずるい。絶対眠っていると思ったのに。
「私の記憶違いでなければ、さっきまで寝ていませんでしたか?」
「そうだな。其方の声が聞こえてくるまで、確かに意識を手放していた」
つまりは、最初から私の独り言が筒抜けになっていたわけで。じわじわと湧いてきた羞恥に堪えられずあなたの肩に凭れると、今度は慰めるような手つきで頭を撫でられる。それだけで嬉しくなっている辺り、疾うに私自身も手遅れなのだろうと理解していた。
「正しくは、其方が我に甘えてくれたのが嬉しかったので敢えてじっとしていたのだが。黙っていてすまない」
そう言って、律儀にも謝罪の言葉を告げたあなたが遠慮なく私を抱き寄せる。二人して包まっているブランケットの柔らかく温かな感触と相まって、なんだか次第に力が抜けてきた私も小さく笑い声を漏らせば、再び頭上から声をかけられた。
「こうして、其方が傍に居る日常そのものが尊いと、常日頃より我も思っている。大事な存在だからこそ怖くなるのは、命ある者ならば誰しもが避けられない感覚であろうな」
――だが、たったひとりの伴侶を幸せにしたいと願う我の心が変わらずここに在ることも。どうか其方には忘れないでいてほしい。
無防備だった片手を掬われた直後。手の甲にあなたの唇が寄せられて、かつてあなたから結婚を申し込まれた日の光景と重なる。視界が少し滲んでも構わず、私は喜んで頷いた。
「ふふ。まさか、人生で二回もプロポーズされる日が来るなんて。夢にも思いませんでした」
「……、嬉し涙と分かってはいるのだが。其方の泣き顔について、この先何年経っても我が慣れることはなさそうだ」
頬を伝い落ちるよりも早く、あなたの指先によって丁寧に涙が拭われる。そうしてもらえたのがまた嬉しくてたまらなくなった私は、愛を込めて自らあなたへと口づけた。