ねむりのあとの世界のこと
目覚めた後の世界では、いつもさまざまな音が聞こえてくる。
例えば、朝が来たことを告げる鳥の鳴き声や道を行き交う車の音。それらに加えて、この春の季節はぽかぽかとした陽射しの暖かさがまた心地よい二度寝を誘うのだけれど、扉の奥からいい匂いがしてくることに気付いた私は早々に諦めて立ち上がった。というのも、仮にこのまま二度寝したとして、結局私より早起きの彼に起こされてしまうだけだからだ。
「ドレーク。おはよう」
ひとまずパジャマの上にカーディガンを羽織り、寝室の扉を開けた先――キッチンに立っていた彼の背中に向かって声をかけると、おはよう、といつも通りの返事が返ってくる。
慣れた様子で今も鍋をかき混ぜている彼の手元からは、ぐつぐつと煮えているコンソメスープの美味しそうな香りが漂ってきて、邪魔にはならないように気をつけながら私も彼の隣に立った。
「今日の具材はどんな感じ?」
「昨夜使わなかった野菜をいくつかと、ウインナーがメインだな。ベーコンと迷ったんだが、残量の関係でこちらにしておいた」
「ん、詳しく教えてくれてありがとう。飲み物、コーヒーでいい?」
「ああ、よろしく頼む」
スープはそのまま彼に任せて、二人分のマグカップを手に取った私は飲み物の用意に取りかかる。さっきまで眠っていた私に対しておそらく気を遣っていたのだろう、画面が真っ暗だったテレビの電源も付けてみると、ちょうど今日の天気予報が流れているところだった。三月半ばを過ぎた現在、各地で桜の開花も始まっており、来週の週末以降よりお花見日和になるらしい。
「……花見か。そういえば、もうそんな時期になるんだな」
「ちょっと前までは皆寒がっていたはずなのに、いつの間にか季節って移り変わっているから不思議だよねえ。あ、スープとかも持ってきてくれてありがとう」
マグカップにコーヒーを入れ終わったタイミングで、完成したスープとトースターにより軽く焼かれたロールパン、ついでに私の好きなジャムも持ってきてくれたドレークへお礼を伝えて席に着く。
テーブルに並べられた朝ご飯のいい匂いに早速胃が刺激されたのか、小さくお腹が鳴ってしまったため慌てて手を合わせた。
「それじゃ、いただきます!」
「いただきます」
私と向かい合わせに座っているドレークも手を合わせた後、まずはロールパンにジャムを付けて一口。甘いジャムの酸味と、パンの柔らかな食感がよく合うことを改めて確認し、彼が今朝つくってくれたスープにも口を付けてみる。
シンプルながらも煮込んだ野菜とウインナーにはコンソメの味がよく染みており、そちらもパンと一緒にどんどん食べ進めていると、不意に柔らかな笑い声が響いた。もちろん、その声は私ではなく目の前に座っている彼から洩れたものだ。
「すまない。きみが美味そうに食べているところを見ていると、なんだか微笑ましくなってしまって」
「えー。つまり今日も食い意地張ってるなあ、って思ったってこと?」
「そうじゃない。自分でつくったものを食べても、今まで特になんとも思わなかったんだが……その、おれのつくったスープを喜んで食べてくれているきみの顔があまりに幸せそうだったから。おれも、きみから幸せをお裾分けされているような気分になった、というか」
言語化するのが難しいんだが、なんて零しながらちょっと目尻が下がっているドレークの表情の方が私にはよっぽど幸せそうに見えて、思わずその顔に見惚れてしまう。
そうして第一に思ったことは、私の恋人が今日も可愛すぎる、という感想だったのだけれど――それを素直に口に出せば、ドレーク本人には盛大に拗ねられてしまう予感しかしなかったので、未だ湯気を立てていたあったかいコーヒーを飲んでどうにか気持ちを落ち着かせた。恋人が可愛いせいでコーヒーの苦味をありがたく思ったのは、もしかすると今日が初めてかもしれない。
「まあ、実際こうしてドレークと二人で食べている朝ご飯がすごく美味しいからね。幸せそう、じゃなくて、相手がドレークだからこそ幸せ、なんだよ」
「! ……っそ、そうか」
「ふふ。顔、真っ赤になっちゃったね?」
「……、きみの、せいだろ」
はあ、と深い溜め息をつくなり大きな手で自分の顔を覆ったドレークを前に、やっぱり私の恋人が世界で一番可愛い、という一言がうっかり零れ落ちる。
あ、と思った時には既に遅く、私の発言がしっかり聞こえた様子の本人は突然席を立つと、お互い朝食の途中であったにも関わらず難なく私の身体を抱き上げた。相変わらず逞しい人だなあ、と思ったのも束の間、こちらを見ている彼の目が平和(だったはず)な朝に似つかわしくなくぎらぎら輝いていることに気付いて驚く。おかしい、さっきまではあんなに可愛かったのに。
「ドレーク、朝ご飯は……?」
「また後で食べる。真夏ではないのだから、このままでも大丈夫だろう」
「ああ、うん。季節、という意味では私も大丈夫だとは思うけど……えーっと、その、寝室に逆戻りする必要って、」
「ある。今までも、きみはやたらとおれを可愛い、と口にしてくれていたが……おれからすれば、きみこそがこの世界でもっとも可愛い人だ」
それをきみ自身に理解してもらうためにも、寝室へ行くのが手っ取り早い、などととんでもないことを口にしている自覚があるのか怪しいドレークの歩みは揺るぎなく。
せっかく美味しい朝食の続きがおあずけになったことをちょっぴり残念に思う反面、そちらより私と過ごすことを優先したドレークの真っ直ぐさが愛しくなった私は、お返しに彼の首筋へ触れるだけのキスを贈った。
なお、その結果今度は耳まで赤く染めた彼の足取りが更に早まり、再びベッドから起き上がるまでに数時間要することを、幸か不幸かこの時の私は想像すらしていなかったのだった。