くれなゐの はつ花ぞめの 色深く

「覚えているのならばなおさら、あの頃のお返しとでも思ってくれ。おれは少し別のところへ寄ってくるが、ゆっくりきみの好きなものを選ぶといい」

 そのように声をかけてから、未だ洋服を身に纏っていたを残していったん呉服屋を出る。花の都の片隅に居を構える呉服屋は老夫婦二人が切り盛りしており、これまで悪い評判も聞かなかったので彼女を連れてきたのだが、早速に似合いそうな色や柄の着物を提案してくれている彼らの様子を見るに己の判断は間違っていなかったようだ。
 念のため、慌てていたが咄嗟におれを追いかけてこないか待ってみたが、特にそういったこともないのを確認してから目的の店に向けて一人歩き出す。

(以前、ブラックマリアから教えてもらった話を覚えておいてよかった)

 脳裏を過ぎるのは、自分と同じ飛び六胞であるブラックマリアとうるティが鬼ヶ島で会話していたところに出くわした日のこと。
 そういえばあの日も、ページワンが完全にうるティに巻き込まれて大変そうにしていたのだったかと思い出す。




『うるちゃんも、せっかく長くて綺麗な髪をしているんだから簪を挿したらさぞ映えるだろうに。そういった予定はないのかい?』
『戦う時にじゃらじゃら鳴っていたら気が散りそうだから、当分は今のままでいいでありんす。でも、もしぺーたんがあちきに贈ってくれるのなら……その場合に限っては、吝かではないでありんす!』
『はっ!? おい姉貴、流石に姉貴でもその発言だけは冗談だよな?』
『冗談だとォ!?』
『あらあら。相変わらず、姉弟仲がよろしいことで。うふふっ』
『……、ブラックマリア。弟から姉にそういったものを贈る、というのは、この国では何か問題があるのか?』

 誰にでも噛みつくうるティがページワンに対しても容赦しないのは分かっていたが、それにしても尋常ではない表情で驚いていたページワンの様子が気になり、ちょうど楽しげに眺めていたブラックマリアへと尋ねる。

『そういえば、お前さんはこの国の外から来たのだから知らなくてもしょうがないわね。ワノ国の女たちって、大抵、簪も含めた何かしらの髪飾りを頭につけているでしょう?』
『ああ』
『もちろん、私みたいに自分自身で好きな髪飾りを選んでつけている女もいるけれど。この国ではね、男から女に簪を贈る場合、自分と一生を共にしてほしいという意味になるのよ。そして女がそれを受け取ったなら、男の想いを受け入れたということになる。つまりは添い遂げたい女ができた男にとって、簪とは求婚するのにうってつけの贈りもの、ってわけ』
『……、……なるほど』
『ふふっ。そうそう、うちの遊郭にも最近、何人か新しく可愛い子たちが入ってきてね。ドレーク、お前さんもよかったら後で寄ってみないかい?』
『簪について教えてもらったことには礼を言うが、遊郭への誘いについては却下だ。元よりおれには、そういった歓待は必要ない』
『やれやれ。普通の男だったら喜んで頷いているところだろうに……お前さんのつれない態度も、やっぱり変わらないねえ。もしかして、とっくに心に決めた女でもいるのかい?』
『……』
『まあ、私としてはその気のない男を呼んでも盛り上がりに欠けるから、別に構わないけれど。万が一、お前さんの気が変わったらその時はまた教えておくれよ』




 なかなか止まないうるティとページワンの騒ぎ声を止めるでもなく、その場でただ面白そうに笑っていたブラックマリアの姿もついでに思い出して人知れず溜め息をつく。うるティよりかはブラックマリアの方がある程度理性もあってマシなのだろうが、この先と彼らが顔を合わせる機会も少なからず出てきてしまうのだろうか、と考えたら若干気が滅入ってしまった。

(……本当は、おれだけがの何もかもを独占できてしまえたら一番良いのだが)

 幼少の頃、短い期間ではあったがかつての暮らしていた世界に迷い込んだ経験があるおれからすれば、あの世界とこの国ではあらゆる面で違いがありすぎた。
 その上、男のおれにとっては常日頃気にならないことでも、にとってはどうしても看過できない事態に遭遇することだってあり得るだろう。そうなった時、直接の助けにはなれずとも間接的なものであれ彼女の信頼を得られたなら。おれ以外の男に余所見をされる可能性については、少なからず潰していけるのでは、ということに思い至る。

(我ながら、彼女に向ける感情が重すぎていっそ笑えてしまうが)

 ――だって、仕方ないではないか。
 生きてきた人生から違いすぎたのに、20年以上という長い月日を経て再びおれの前に現れたきみが。どういった奇跡か、あの頃とほぼ変わらない姿で今日もおれを呼んでくれて。
 剰え、昨夜は大人になったおれに対する警戒心など一つも持っていないのだと伝わるには充分すぎた無防備な寝顔まで見せられて――そんなきみを自ら手放す未来など、おれにはもはや、受け入れられるはずもない。

(たとえこの先、何が待ち受けていたとしても。おれは、おれだけは絶対にきみを手放してたまるものか、)

 拳を握りしめながらも歩き続け、ようやく辿り着いた目的の店の暖簾をくぐる。
 このような店に、よもや飛び六胞が訪れるとは思わなかったのだろう。おれと目が合ってすぐに冷や汗を浮かべた店主からは分かりやすく怯えられたが、戦いに来たわけではないことを伝えた上で手短に口火を切った。

「この店に置いてある簪の中で、一等、出来の良いものを見せてくれないか」

 ――おれの大事なひとへ、これから贈る簪を選ぶために。

    ◆

「この国の女性は、も知ってのとおり髪飾りを身に着けている者たちが多いんだ。本当はきみ自身で選んだ方がよかったかもしれないが、昨日の今日で、見知らぬ場所を長く歩き続けるというのも疲れるだろう?」

 着物選びが終わって呉服屋から出てきたを前に、もっともらしいことを言いながら先ほど立ち寄った店で手に入れたばかりの簪を取り出す。陽の光を浴びて輝く簪を見つめている彼女の瞳は、それ以上に生き生きとしていて美しく。いっそのこと、いつまでもその眼差しを見ていたいとさえ思っていた。

「わ、綺麗な簪。これも藤の花だけど、お花の色が紫色なんだね。あれ、……もしかして、わざわざ買いに行ってくれていたの?」
「ああ。おれが勝手に選んだものだが、きみを気疲れさせるのもどうかと思って、だな」

 嘘ではない事実の一部を伝えながら、どうしても直視する勇気を持てずに目を逸らしての反応を待つ。辛うじて手を震わせてはいないものの、この身体を巡る血の熱さは誤魔化せるはずもなく、きっと今おれの首から上は大層赤くなっているのだろうということが自分でも容易に想像できた。

(敢えて彼女には言っていないことだが。実はこの呉服屋の近くにも、目を凝らせばいくつか簪を取り扱っている店自体はある。だからが望んだなら、自分で好きな髪飾りを選ぶことも本来ならば不可能ではなかった)

 それでも、の疲れを心配しつつ最初から他の店で髪飾りを選ばせようとはしなかったのは――ひとえに、おれが彼女に対して抱いているこの独占欲によるものでしかない。

『もちろん、私みたいに自分自身で好きな髪飾りを選んでつけている女もいるけれど。この国ではね、男から女に簪を贈る場合、自分と一生を共にしてほしいという意味になるのよ。そして女がそれを受け取ったなら、男の想いを受け入れたということになる。つまりは添い遂げたい女ができた男にとって、簪とは求婚するのにうってつけの贈りもの、ってわけ』

 頭の中で、ブラックマリアから聞いた簪の話が反響する。
 ……自分がこんなにも、ただ一人のひとを愛することになるなんて出逢ったばかりの頃は夢にも思わなかった。
 しかし、生きてきた人生や、お互いの過ごした世界がどれほどに違っても。或いは全く違っていたからこそ、おれは陽だまりのようだったきみに今も惹かれてやまないのだろう。

(再会したばかりのに嫌われたくないあまり、こんな形で遠回しに好意を伝えようとしているおれの行いは。決して、褒められたものじゃあないのだろうが……)

 なおかつ、仮に拒まれて簪を受け取ってもらえなかったらその時はどうしようもないか、などと今更すぎることを考えていると、小さくも柔い手が優しくおれの手に添えられて。

「ドリィ、気遣ってくれてありがとう。私も好きなお花だったから嬉しいよ。ちなみに、今ここで着けてみてもいいかな?」
「! も、もちろん」

 おれの葛藤を知るわけもないの手が、大事そうに簪を受け取ってくれたかと思えばすぐさま彼女の髪を彩ってゆく。
 しゃらり、と歩く度に涼やかな音が鳴る簪を挿したの着物姿はこのワノ国の町並みともよく馴染んでいて、そのせいで改めて彼女に見とれてしまった。

「ん、こんな感じかな。ドリィ、どう? 似合う?」
「……、……」
「ドリィ? ……もしかして、イメージと違ってよくなかった?」
「……はっ。い、いや、違う! 似合っているぞ、とても」
「えー? 本当かなあ……」
「嘘じゃない! きみの雰囲気とよく馴染んでいるから、つい見とれてしまっただけで、」
「えっ」
「っ、……お、おれがそんな風になってしまうくらい。本当に、によく似合っている、と言いたかったんだ……」

 ああ、やっぱりこの簪にしておいてよかった。
 小声で呟いたはずが、どうやら本人にも聞こえてしまったらしくほんのりと彼女の頬が赤く染まる。その一瞬に浮かんだ恥じらいの表情さえも愛おしく、ごくり、と思わず喉が鳴った直後。またしても、の小さな手とおれの手が触れあって。

「人、少ないみたいだし。帰るまでの間でいいから、久し振りにドリィと手も繋ぎたいなあ、なんて思ったんだけど……それはだめかな?」
「……、だめじゃ、ない」
「ふふっ。ありがとう、私の我儘も聞いてくれて」

 こちらを見上げた彼女の瞳に、おれだけが映っていることが嬉しくてたまらなくて。まともな言葉が出てこなかった代わり、せめてと繋いだ手に痛くない程度の力を込める。

(手遅れなほどにきみのことを愛してしまった。でも、……を好きになったこと、おれは微塵も後悔していない)

 もう一度出逢えたきみを、どうすればこの世界に留めておけるのか。
 そもそも、そんな手立てがあるのかどうかさえも分からなかったが――今はただ、と過ごす穏やかなこの時間にもう少しだけ浸っていたくて。

 桜色の花びらが舞い落ちる都を歩きながら、二度と手放さないと決めた彼女の小さくも柔い手が離れてしまわないように、その温もりごとこの手で包み込んでいた。

■補足(タイトル元ネタ/古今和歌集の以下の和歌より)

紅の 初花染めの 色深く 思ひし心 我忘れめや

>初咲きの紅花で染めた色が深いようにあなたのことを深く思っていたこの心を私が忘れることがあるでしょうか。いいえ、忘れることはありません。
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